Wakamats イベント「市民が考える脳死・臓器移植」の成果・資料公開



科学技術への市民参加型手法の開発と社会実験 −イベント「市民が考える脳死・臓器移植」を中心に−

市民参加研究会編『科学技術への市民参加型手法の開発と社会実験』補遺(2005.04.23

第6章 イベント参加者の感想・意見(追加)

市民パネル

茂木勇(群馬県前橋市、公務員・学生)
(2)「市民が考える脳死・臓器移植」に参加しての感想・意見

市民パネルとして参加して、今回の社会実験を振り返るにあたり、以下、積極的に評価する点を3つ、今後の課題として指摘したい点を2つ、思いつくまま記載したい。

【積極的に評価する点】

  1. 第1日目「基礎知識を学ぶ」における情報提供は、終始「偏り」がなかったこと

    事前配布資料および「説明者による解説」は主に客観的な情報によって構成されており、また「専門家からの情報提供」においても、賛成派と反対派のバランスおよび論点の多様性が確保されていた。実際、市民パネル側も、得られた情報に偏りはなかったと感じているものと思われる。

  2. ファシリテーターは市民パネルの議論を適切に運営管理していたこと

    議論に不慣れな多くの市民パネルを前に、ファシリテーターは適切に話題を「引き出し」、「助言」を与えて場を活性化させる一方、しっかり「意見集約」「時間管理」していたように感じられた。グループメンバーは毎回入替となり、ファシリテーターも代わるものの、どのグループに参加してもストレスなく議論に参加できたのは、ファシリテーターおよび書記スタッフのおかげだと思う。(私も含めて)参加する市民は、必ずしも議論に慣れ親しんでいるわけではないので、ファシリテーターの果たす役目は大きいと思った。

  3. 個別会議のあとで必ず全体会議を行ってフィードバックがなされたこと

    全体を3グループに分けて議論する関係上、個別会議の弊害として、自分のグループの論点はよく分かるものの、他のグループの議論の経緯は分からない点がある。これを少しでも解消するため(かと思うが)、個別会議のあとに必ず全体会議を開いて、各グループとも議論の経緯を発表することとなっていた。これらフィードバックのおかげで、どのグループに参加しようと基本的に全体の内容について把握できた。

【今後の課題として指摘したい点】

  1. 市民パネルの予備知識に「ばらつき」があったこと

    市民パネルは新聞等による一般公募であったため、参加者のなかには「脳死・臓器移植」に関する情報をすでに持っている、あるいは高い関心を寄せている方もあって、参加段階で市民パネル間に予備知識のばらつきがあったように感じられた。もちろんこれを補うために「基礎知識を学ぶ」をはじめ各種の情報提供があったわけだが、実際の議論における発言の量・質に照らして鑑みるに、格差があるように感じられた。

    その経験から、市民参加型手法を検討する上で、参加者間の予備知識の格差について、如何なる立場をとるのか検討する必要があるのではないか。

  2. 3日目に実施された「専門家との対話」が機能したか検証が必要

    3日目の「専門家との対話」は今回のプロジェクトにおいて最大の目玉と伺っていたが、とりわけ午後のグループ討論は、市民パネルとしては「最も緊張した時間」であった。

    午前の「KQに対する専門家の回答」に関して、午後に専門家と直接に議論して論点を深める予定であったが、専門家から追加情報を得たに過ぎなかったようにも感じられた。主催者側の意図した「専門家との対話」となったか否か、正直言って自信がない。

    これは偏に市民パネルの力不足によるものだが、強いてプログラムについてリクエストをあげるならば、午後に備えて質問項目をまとめる時間があったならば、もう少し専門家に立ち向かえたように思う。

専門家

大久保通方(NPO日本移植者協議会 理事長)
「市民が考える脳死・臓器移植」市民パネル がまとめた「市民の提案」について

今回の市民パネルに情報提供者として参加した感想と提案に対する意見を述べさせていただきます。

まずこのテーマが市民パネルに向いていないのか、それとも市民パネルそのものの限界かも知れないが、当事者としての視点が欠落してしまっている様に感じる。 まず脳死について述べる。脳死と臓器移植は、本来まったく別のものであったが、臓器移植を行ううえでは厳格な死の判定が必要となってきた。その結果欧米諸国では1980年代に死の定義について論じられ規定されてきた。我国においてはそれを先延ばしにしてきた結果この様な事態になっている。

我国においても医学の専門家の間では「脳死は人の死」と結論されており、専門家の反対意見は、ごく少数である。どのような事柄であってもそれに反対する意見はあって然るべきであるが、この市民パネルにおいては、専門家を含め脳死反対論者の方が情報提供者として多数を占めており現状を反映していない。海外においては、「脳死を人の死」として既に約20年を経過し、社会において定着をしている。この点についても我国のみが特別なのであろうか。

海外においても「脳死を人の死」と認めたくない人は存在する。しかし死の判定地点が各個人の考え方や感情によって左右されるべきでないと考える。科学的(医学)な死と哲学的、宗教的など概念的な死とは、はっきりと区別されるべきであり、死の判定は、純粋に科学的に医師によって判定されるべきものであろう。

脳死判定については、我国における判定基準は、海外の基準に比べても厳格であり適性と考える。無呼吸テストのことが「市民の提案」で指摘されているが、十分安全を確認したうえに行われており脳死判定にこれを加えることは適正と考える。今回脳死及び臓器移植に反対の立場の方から無呼吸テストの危険性が指摘されていたが、もし脳死判定基準から無呼吸テストを除外するとその方達は、今度は脳死判定が不十分との指摘をするであろう。救命救急などの現場にいる専門の医師は、ある点をとらえて患者の状況を見ているのでなく経過観察の上に患者の状況を把握しており、その上で脳死判定が行っている。最近では、家族により脳機能を明らかにするために脳血管造影を行う施設も多く、新しい技術が開発されれば、それを判定基準に加え改めていけば良い。6歳未満については、1回目と2回目の脳死判定時間を大幅に延ばすと共に除外規定を増やすなどより厳格な脳死判定を規定している。

「脳死を人の死」として受け入れられない人に情報を提供し、説得しようとしても意見を変えることは、ほとんど不可能であろう。この人たちが心臓や肝臓などの臓器を提供することはあり得ないし、私たちもそれを望んではいない。海外においても宗教などの違いがあっても、どの国においてもこの様な人は、15%から25%存在する。

「最終的に脳死臓器移植を必要としない医療としていく」との提言であるが、現状その実現には、まだ相当の年月(20年以上)が必要であろう。それでは現状我国において海外であれば臓器移植により救命されていると思われる人が毎年数千人亡くなってしまっていることをどうするか。海外では助かる命が毎日何十人も失われている、不治の病ならば本人も家族もあきらめなければならないが、高度の医療技術を持ち国民皆保険の医療制度を持っていながら、その日本に生まれたために救うことができないのか。

我国においても「脳死は人の死」でないと考える人は、少なくても25%程度は存在するであろう。今なお「脳死は人の死」として国民的コンセンサスができていないからと現状のまま放置し続けるのか。海外とはまったく違う法律をそのままにして、海外に毎年数十人が心臓移植のため多額の募金をして渡ることを、このまま放置し続けるのか。WHOにおいても我が国の現状を非難する声が年々高まっている。

今回の情報公開についての「市民の提言」について私も賛同する所が多い。現行法に規定されているように国及び地方自治体は責務としてもっと積極的に臓器移植の情報開示、普及啓発に努めるべきである。私たちも患者団体としてできうるかぎりの努力を行っているが、一般国民には臓器移植が自分の身近な問題としてほとんど認識されていない。

市民パネルに参加された方々には、多くの情報が提供されたことであろう。しかし今回の提案に、当事者の視点にたった提案がまったくなされていないことを非常に残念に思う。これは臓器移植については、国民にどれだけ多くの情報を提供しても自分自身の問題として考えることが不可能ということであろうか。

すべての人が納得する方法など存在しない。現在の問題点を整理し、「提供したい・提供したくない・提供を受けたい・提供を受けたくない」これらの四つの権利を守りつつ、今なしうる最善の方法を速やかに実行することが重要であろう。こうしている間にも多くの方達が移植を希望しながら亡くなっている現実を忘れないで欲しい。

ファシリテーター

水谷 香織(岐阜大学工学部)

「市民が考える脳死・臓器移植」にファシリテーターとして参加して

●脳死・臓器移植!? 異分野でのファシリテーターに挑戦

私は,社会基盤整備を中心とする市民参画型公共事業計画について研究をしている研究者です.将来は研究成果を活かして,ファシリテーターや,まだ市場として確立していませんが,利害関係が対立する案件で,独立的かつ中立的な立場から合意形成を支援するコミュニケーターとして関与する仕事を志しています.

ですから,脳死・臓器移植については,全くのど素人なのです.今回,若松先生より,@脳死・臓器移植に関する専門家ではなく,Aこれからファシリテーターを目指そうとしている若手,を探しているということでお声がけを頂いたとき,迷わずOKのお返事をさせて頂きました.正直,「何の知識もない脳死・臓器移植というテーマで,私にファシリテーターが務まるのだろうか・・・」という不安はありましたが,一方で,「なんて素晴らしい機会を頂いたんだろう,これまで頑張ってきて良かった!」と挑戦したいわくわく感でいっぱいになりました.

●4日間のファシリテーターズ日記

事前打合せを重ね,1日目を迎えました.専門家の方々から脳死・臓器移植に関するご説明を多様な角度から頂き,人間の生命に関わる非常に重要かつ複雑なテーマであることに,とても関心を持ちました.実際には,キーワードをあげることも覚束無く,論点やこのテーマの枠組みといったものも掴めない状態でしたので,市民パネルの皆さんと同様に一生懸命勉強しました.

2日目は,グループ討論を行いましたが,そこでは,グループファシリテーターとしての役割が十分に果たせず,市民パネルの皆さんが納得するまで議論を集約することができませんでした.概念的な難しいテーマであると励ましてくださった方もいらっしゃいましたが,これは私のファシリテーターとしての未熟さ故です.焦ってしまうと前提条件をきっちりと抑えた上で情報整理ができなくなることが良くわかり,猛反省をしました.

3日目になると,だんだんと慣れてきて,市民パネルの皆さんの意見や問題意識を自然に把握することができるようになりました.

4日目の最終日は,2日目で失敗して皆さんにご迷惑をお掛けした分,今回は絶対に失敗できない,とかなり真剣にグループ討論に取り組みました.終了後に,スタッフの方から「怖い顔をしていましたよ(笑)」と言われたほどです.市民パネルの皆さんの高い問題意識を削ぐことなく,いかにクリエイティブで高密度な議論となるようサポートし,纏め上げるか.2日目は議論を広げすぎ発散してしまいましたので,最終日は発散を抑え,制限時間の5分前に終わるつもりで進行をさせていただきました.おかげさまで,市民パネルの皆さんにご協力頂き,また事務局の皆さんに十分なサポートを頂きましたので,余裕をもって課題を終了することができました.

●課題山積,それは素晴らしいこと

今回は,ディープ・ダイアローグという手法を用いて,「市民が考える脳死・臓器移植」をテーマに対話が行われました.今後は,様々なテーマについて市民が対話を行う手法として,社会に普及可能なレベルにまで洗練していく必要があるように思います.このような研究成果の社会化を考えたときには,費用や人材の問題など課題は山積しているかと思いますが,それはとても素晴らしく楽しみなことだと思っています.

今回はファシリテーターとして,参加をさせていただきましたので,ファシリテーターに求められる技術と専門知識について個人的に感じたことを今後の課題として述べたいと思います.

  1. ファシリテーターに求められる技術

    ファシリテーターは,あくまでも市民パネルの皆さんが議論の内容に集中できるようにするためのサポートを行います.必要がなければ,何もしないのが一番良いのでしょう.しかしながら,限られた時間内で,未知の最先端のテーマについて説明を受け,論点や枠組みを整理し,社会に向けて意義あるものを発信していくためには,市民パネルの皆さんが議論しやすい雰囲気づくりに努めるとともに,ビジネスファシリテーションに必要とされる論理的思考や整理手法を身に付けておく必要があると感じました.

  2. ファシリテーターに求められる専門知識

    ファシリテーターには,十分な議論を促し整理するために,脳死・臓器移植に関する専門的な知識が必要である,という見方があるかと思います.しかし,今回は専門的な知識や最先端の議論を知らないが故に,それらに捕らわれることなく市民パネルの視点で脳死・臓器移植を考えるときの考えるべきポイントを整理することができたと思います.実際には,目的に応じて専門的な知識を有するファシリテーターが関与した方が良い場合があるでしょう.また,もっと現実的な観点から,適切な人材の確保自体が難しいという課題もありますので,今後の研究と人材育成に期待したいと思います.

●10年後に思いを馳せる

ファシリテーターという大変貴重な経験をさせていただきました.この感謝の気持ちを胸に,現在私自身が関与している市民参加型のプロジェクトなどにディープ・ダイアローグの要素を取入れるなど,洗練された対話の手法として少しでも社会に還元していくことができればと思っています.10年後,さらに進化したディープ・ダイアローグが社会に浸透し,より自発的な,より民主的な社会に貢献しているであろうことを夢見ています.

最後になりましたが,若松征男教授には,このような機会を頂き,教育的観点からまた研究的観点から多大なご指導を頂きました.また,市民パネルの皆様には,とても前向きな議論を展開して頂きました.さらに,ファシリテーターの庄嶋様,深田様,三上様をはじめとする事務局の皆様には,至らない私を常にカバーして頂きました.心より感謝いたします.

事務局

三上 直之

まるで個人的な話で恐縮ですが、本プロジェクトとのご縁は、今から約2年半前、代表の若松征男さんが当時主宰されていた別の共同研究プロジェクトにおいて、東京湾の干潟と周辺地域の環境再生をテーマとした「シナリオ・ワークショップ」手法の社会実験に参画したのが始まりです。大学院で環境社会学を学んでおり、ちょうど当該地域をフィールドとして社会調査を行ってきていた関係で、ワークショップのための事前の論点整理や資料準備、当日の記録係などをお手伝いしたのでした。

いま振り返ると、この時点での私自身の市民参加型手法に対する関心は“ユーザー”としてのものでした。コンセンサス会議やシナリオ・ワークショップなどの手法が、地域の環境保全に向けた諸主体間の協働や、市民参加による政策形成にどのように生かせるのだろうか? もっと有り体に言えば、こういった参加型手法を、環境保全に向けた運動や政策にうまく活用できないだろうか? これが関心の中心だったわけです。実際、シナリオ・ワークショップの社会実験が終わった後、2004年には、この経験を活用して、若松さんにも助けていただきながら、東京湾三番瀬の再生計画策定プロセスの「評価ワークショップ」なるものを自ら企画・運営したりして、参加型手法のユーザーとしてそれなりの手ごたえを感じていました。

そんな経緯で手法の“自作”にまで足を突っ込んだヘビーユーザーが、今回のイベントでは、完全に「つくる」側に回ることになりました。個人的な事情で本研究プロジェクトへの参加は2004年秋以降となったため、イベントの準備・実施過程(報告書では第4・5章)において、手法の詳細設計や市民パネルの募集、ファシリテーター、事務局スタッフなど、運営・管理全般に関わらせていただきました。

いずれも勉強になることばかりでしたが、とくに痛感したのは、「ユーザー(使う人)」と「プロデューサー(つくる人)」との視点の違いです。私自身、これまで参加型手法に関して、ユーザー的な視点から厳しい注文を思いついたり、時々はそれを表現したりもしてきたのですが、いざ「つくる」側に立つと、なかなか難しいものだと実感しました。その意味で、アンケート等を通じてお寄せいただいている手法・運営面でのご意見やご感想の大半は、ユーザーとして非常によく理解し、共感できるものばかりです。もっとも、4月23日の「公開シンポジウム」においては、私自身は、イベントの企画・運営側、「つくる」側の一員として、こうしたご批正にできるかぎりお答えし、参加者の皆さまと共に、より使い勝手の良い参加型手法の開発に向けて議論ができたらと考えています。

ただ、そのうえで、ここで言っている「ユーザー/プロデューサー」の区別はあくまでも相対的なものであり、市民参加型手法の企画・運営者を何か固定された「専門家」のようなものとして捉えるのは避けたい、と感じます。他ならぬ市民参加について考え実践する営みのなかで、「市民 対 専門家」という対立が再生産されるというのは、あまり賢明なあり方ではないように思えるからです。私自身は、上に述べた経緯で約2年半前に参加型手法の設計や運営の世界と出会い、自作まで試みるヘビーユーザーとなった挙句、今回は完全につくる側に回る機会を得ました。このイベントを通じて得た経験は、ごく近いうちに自らの領域である環境社会学・環境保全の分野で活かしたいと考えていますし、さらには、そうした活用のなかで得た知識を、将来的に参加型手法の研究開発に還元していきたいとも思っています。

最後になりましたが、新しい参加型手法の試行と、それを通じた「市民の提案」の作成・発表が実現したことに対して、参加者・関係者の皆さまに厚くお礼申し上げます。とくに市民パネル、専門家、説明者、ファシリテーターの方々には、ご多忙の中、4日間計24時間の長丁場に根気よくお付き合いいただきました。笹川平和財団にはイベントの背景となる調査研究の段階からプロジェクトの活動を支えていたただきました。また、この間、報道関係や傍聴の方々、市民参加者募集にお応えいただいた方々など、多くの方がイベントの過程を見守ってくださいました。主催者側の一員として、皆さまのご参加・ご支援に感謝いたします。誠にありがとうございました。