科学技術への市民参加型手法の開発と社会実験 −イベント「市民が考える脳死・臓器移植」を中心に−
第6章 イベント参加者の感想・意見
「市民が考える脳死・臓器移植」の全4日間の日程が終了した後、主催者から、このイベントへの参加者(市民パネル・専門家・説明者・ファシリテーター・事務局スタッフ)に、(1)4日間の作業を通じて市民パネルがまとめた「市民の提案」に対する感想・意見と、(2)「市民が考える脳死・臓器移植」というイベントに参加しての感想・意見を寄せていただくようお願いした。
本章では、この求めに応じて参加者からお寄せいただいた感想・意見を、市民パネル・専門家・説明者・ファシリテーター・事務局スタッフの別に原文のまま紹介する(順不同・敬称略。職業・所属・住所などはイベント開催当時のもの)。
1. 市民パネルの感想・意見
吉? 富士夫(千葉県市川市、会社員)
(1)今回まとめられた「市民の提案」についての感想・意見
とりわけ今回選出された「脳死・臓器移植」というテーマは、現行の臓器移植法改定という政治日程とも微妙に絡み、「地雷を踏む」と言いましょうか、「パンドラの箱を開ける」ようなテーマを含んでおり、落とし所はけっこう難しかったと思います。にもかかわらず、日ごろより問題意識をもたれている市民パネルの参加が多く、充分とは言えないまでも、限られた時間の中ではありましたが、結果的にはかなり本質的な問題に関わる議論を踏まえた提案ができたのではないでしょうか。「これからの医療の進むべき方向性」まで含めて、簡潔にまとめられた最終提案は、当事者の一人ではありますが、公開に足る客観性を持った一定の水準に達していた提案であると素直に評価したいと思います。
(2)「市民が考える脳死・臓器移植」というイベントに参加しての感想・意見
今回私自身、性別・年齢・プロフィール、そしてパーソナリティの違う、まったく面識のない十数名の市民の方々と同じテーマで深く話し合うという機会をいただいて、とても勉強になりました。ただし、欲を言えば、レイアウトの都合上、ホワイトボードの設置位置等に物理的な限界がありましたが、もっと参加者がリラックスできる余裕のある会場設営と雰囲気作りがあっても良かったかなと思います。また、参加された専門家の方々の主張される論点もそれぞれ専門毎に広がりがあり、議論が拡散した感も否めず、掘り込み不足、消化不良との印象を与える場面も少なからずあったと思います。第一日目のスケジュールには予定されていませんでしたが、できれば質疑応答をしていただいた専門家の方々同士の議論が30分でもあれば、かなり違った展開になったかも知れません。やはり、専門家同士の議論は、それこそ最後の提言の中にも出てきましたが、公開パネルディスカッションに近い運営形式として公開されれば、立脚点の違いが明確になり、一般市民への総合的な理解度も結果的に増したのではないでしょうか。また、このような「会議体そのものを考える機会」をあらかじめ持たれている方とそうでない方、ディスカッション・リテラシーとも呼べるようなコミュニケーション・スキル自体を身に付けている方とそうでない方とでは、自ずと議論の内容や質に差が出てくることは否めず、この辺はさらに検討の余地があるのではないかというのが正直な印象です。ただし、本来ですと市民パネル自らが最終発表しなければならないところ、若松教授から発表していただく結果となり、市民パネラーの一人として力不足を感じました。
とにかく、貴重な体験でしたので、プロジェクト全体を総括した資料がまとまったあかつきには、ご紹介いただければ幸いです。
最後に改めまして、ファシリテーターを含めた事務局スタッフの皆様に重ねて御礼申し上げます。本当にありがとうございました。
松尾 知子(茨城県つくば市、学生)
(1)「市民の提案」について
かなり慎重な提案にまとまったと思っている。最後まで市民パネルがこだわったのは「情報」と「脳死とは何か」である。これは四日間を通じてずっと言われていたことであった。
脳死が死であるのか、脳死が何であるのかはあまりにも大きな問題であり過ぎて最後まで結論はもちろん出なかった。これは極めて個人的な問題・考え方でもある。
「脳死判定」について、「現在の医療について」、理解したことはたくさんあった。しかし、それは理解であると同時にそれぞれの市民パネルが知っていたことの確認をしているようにも見えた。「市民の提案」は文字通り市民の提案らしく、もともと持っていた自らの意見を専門家の話を根拠として補強し、まとめたものであるように私には感じられた。
この提案は市民のごく真っ当な提案であると思う。それぞれの市民パネルはもっと強い思いを持っているであろうが、それが柔らかく集約された。多くの一般市民は関心がなく、自分が脳死になるとも、移植が必要になるとも夢にも思っていないであろう。脳死のことなど考える暇がないまま日々は過ぎてゆくのが普通であると思う。しかし、いざ脳死について考えさせられたときは日本人の国民性や文化を含めて考えた時、半数以上の人には今回の提案のような考えが浮かぶのではないかと思う。そういう意味では妥当な提案であるかもしれない。
この提案がどこでどのように使われるのか、使われないのか私には分からない。ただ、これはほんの16名の何らかの形で選ばれた市民が選ばれて四日間集まり出来上がったものであり、偏りも足りないところも多くあると思う。この提案をもし市民の方が読んだならばどのようなものも鵜呑みにするのではなく、自らの立場で、自らの判断で、脳死・臓器移植についての意見を持って欲しいと思う。ほんの少しでも一般の市民の方々に脳死について関心を持ち、思いを巡らせて欲しい、それがこの提案の作成に関わった私の唯一の願いである。
(2)「市民が考える脳死・臓器移植」というイベントに参加して
私がこのイベントを知ったのは新聞紙上においてである。大学の2年生でたまたま『「脳死・臓器移植」を中心とした死に関する一考察』という題名で論文を書いていたため目に付いたのだと思う。今まで聞いたことのない手法のイベントであったため、応募した。私の関心は脳死・臓器移植についてというよりは、むしろどのような人がやってきてどのようなことが行われるのか、また自分がそのような場でどこまで意見を述べられるのかにあった。
一日目はほとんど話を聞く時間であり、ついてゆくのが大変であったが、大学にいるのと同じ気分であった。
二日目は市民パネルだけで質問を作った。グループ作業では意見が発言しやすく、また市民パネル同士の繋がりも深まった。
三日目はこのイベントの目玉と言われた専門家との直接対話であった。専門家はそれぞれ確固たる信念とそれを裏付ける根拠があるから専門家である。自分の質問力のなさを痛感した。専門家を相手にとても太刀打ちできなかった。
四日目、市民パネルもお互いに慣れた頃、最大の山場を迎えた。この日が一番大変であった。そして市民パネルの一人一人の意志が最もはっきりと見えた。
全体を通して感じたのは何らかの思いのある人しかこのようなイベントには参加をしないということである。それは予想していたことではあったものの、思っていた以上にその傾向が強かった。そして、今回は圧倒的に慎重派が多かった。それがばっちり「市民の提案」にのっかった。私は他の市民パネルの意見を聞いていて冷静であった。それは若さのせいでもあるかもしれない。経験が価値体系を創るとしたら、若い人は圧倒的に生死に関する経験は少ないであろう。今回のイベントでは結局、脳死・臓器移植の問題は「脳死が死であるか」という問題に収束されるように感じた。そしてそれを否定する人は当然移植には反対をした。私は脳死が死であるかは分からない。死の定義は人が作ったものであり、文化・国によっても異なる。そのようなことを考えたとき、私は脳死が死であるかよりも、その状態をきちんと理解し(もちろん頭で理解するのと、実際その状態になったときの状態は異なるけれど)そのような場合に移植をしたい人は提供すれば良いし、嫌な人は拒否をすればよい、それだけのことではないかと思った。法律が改定されれば分からないが、現行法では個人がそれぞれの大切な人と共に考えて決めればよいのではないかと思うのだ。私は昨年、移植でしか助からない友人を亡くした。だからといってすぐに移植に賛成するわけではもちろんないが四日間彼女のことはいつも頭の片隅にあった。そして今後の移植を必要としない医療の可能性に期待をしたい。
他の方に押されて十分に意見を言えない場面もあったが、私にとっては初めての手法を体験する有意義な四日間であった。沢山の出会いと刺激があった。
最後にこのような機会を設けてくださった若松先生はじめ、事務局の皆様、専門家の方々、ファシリテーターの皆様に御礼申し上げます。ありがとうございました。
中村 健子(東京都中央区、主婦・学生)
2 「市民が考える脳死・臓器移植」というイベントに参加しての感想・意見
今回の企画に参加できましたことは,とても有意義な体験でした。4回の会議は緊張感の内にあり、またその間は,この問題がつねに頭にあって、多少の本も読むことができました。
そして、いかに無知で無関心であったかと、思い至りました。
事務局のみなさま、 ほんとうに優秀でよくやってくれました。われわれ、市民パネルに対する態度も礼儀正しく、気持ちよくすごせました。
とくに、電機大のゼミのみなさんは, この企画のために長い準備をされたとのこと,ご本人の勉強,研究のためではありましょうが、彼らの努力を評価し、意見、思いを聞きたいものです。
ファシリテーターについて, 全体的には合格点ですが、少々、気がかり不本意に感じた点もありました。ファシリテーターの中立性は当然心得ていることでしょうが、こちら側から見ると、そうではなく見える場面もありました。時間の制約の中で、とにかくも纏めることが責務でありますから,ある程度の切り捨ては致し方ない。その場の空気を読んで大勢に従う,ということに異論はありません。しかし、立場上、力を持っているファシリテーターは、言葉の使い方ひとつでその場(読むべき場)を誘導することもできる重鎮であること。さらにファシリテーターも主観、意思をもつことは避けられないことを自覚して、自分の意に染まぬ意見に対しても公平であってほしい。逆にグループ討論のとき、ファシリテーターの分野をオビヤカされている場面も見られ,ここではもうすこしリーダーシップを発揮してほしいと感じた一面もありました。
この企画の目的として、《新しい市民参加手法を設計し、社会実験する》というバックボーン、このことが、テーマについて考え、意見を述べるときのなにやら“足枷”になる思いがつきまとったのは私だけだったでしょうか。つまり、この市民会議は社会に提案の一石を投じること、ではなくて、一般市民が政策つくりに参加する方法を模索するためのゲネプロのようなもので,この経緯の制作課程が重要である。従って、この市民の提案というのは,本番の“実弾”ではない,というような退いた思いでありました。
(そのわりには吠えていたじゃあないかという声も?、、、)
しかし、たとえ社会実験であるにしても、会議終了後、記者発表がされ社会に向けて発信されたのでありますから、参加者としては一応満足であり,専門家の話を聞き,他のパネラー、ファシリテーター、事務局と協力して纏め上げた手応えは感じることができました。
大多数の市民は、脳死、臓器移植について知らない(知らされない)まま、なんとなく社会の状況に従っていると思います。現代社会は情報にあふれ、誰もが“自主的に“情報を得て、取捨選択して生きていると感じています。“構成された事実“を伝えるメデイアによりながら、自分の意見を持っている、と思わされている。メデイアリテラシイ(メデイアスタデイーズ)が昨今注目されてきているが,戦争の世論さえ誘導するメデイアの時代,私たちはlook carefully,think critically(注意深く見つめ、批判的に考えよう)に、構えることが必要だと思います。
最後にわたしの提案,賛同を得られずボツになった=「医療は作為的(作意的)なものである」と理解した、について一言(もう一言)言わせてほしい。(悪あがき?、、)
日本の高齢化、死亡率一位の癌疾患増加にともない、臓器移植の要望は高まり、臓器不足はますます増大するのではないか,というわたしの質問に専門家から(3人中2人)
=医療は作為的なものである。救命がすべてではない。日常の医療においてもそれは行われている。従ってそれ(私の質問)は杞憂である=と答えられた。
この市民会議終了後の3月17日日経(夕)に、我が意を得たりといった記事が載った。
≪世界の話題≫にスペイン(臓器移植のセンシンコク)で、ここ15年間で提供者の数は3倍になったが、移植に自分の命をかける患者の数も増えてしまった。ひと昔前には考えられなかった65歳以上の高齢者、糖尿病や癌患者が待機リストに含まれ、需要と供給の不均衡が広がるばかりだーというのだ。
つまり、移植推進の先にはこのような問題は起きる、起きているのである。
そして、(日本の)医療が作為的であるのでそういう高齢者の要望は聞かない,というのが専門家の答えであり、決して揚げ足とりではないが、移植の推進ムードの中で、臓器提供者が“作為的“に扱われないとは言えない。この重みを考えたかったというわけです。
これを機会に臓器移植について常に関心をもち,できることは参加していきたいと思っています。
社会が高度に進み、為政者と専門家が作る社会の政策作りに一般市民は無関係では民主主義とはいえない。国内外に問題山積の今、このような市民会議を広くもち、提言していくことが是非とも必要だと思っています。
[追加]
市民会議を終えてからふりかえってみると、一般市民ならではの視点、より根本的より素朴な疑問、提案が抜けてしまったように、私は感じました。
それは、“臓器移植は、ほんとうに必要なものなのか、人間に幸せをもたらすものなのか”という問いであり、臓器移植があたかも、既成概念という前提で、【日本は移植後進国で良くない】という考え方そのものを,もっと議論し、提案してもよかったのではないかということです。
会議の初めの方では,
*移植を外国に倣って日本が進めなければ何か、不都合があるのか?
*人間はどこまで生きれば良いのか?
*同時代のこの地球で、どれだけ多くの発展途上国の命が粗末に扱われているか。(筆者)
という、意見がありました。しかし、学習すべき、考えるべきたくさんの具体的な問題のまえに、かき消されてしまった感じがするのです。
町野専門家が、「また、平成9年の臓器移植法成立のときの蒸し返しか」と、感想を漏らしましたが,一度,踏み出すと、もう決まったこと、外国は、もっと進んでいる、いかに推進させるかが今後の課題だ、という方向にいくのが、進歩的な人間だと考えられがちであります。しかし、納得できないなら,おかしいと思うなら、ひき帰して議論し、提案するのが市民会議の役割であるように思うのです。
「市民の提案」は、パネリスト全員で纏めたものでありますから、皆の意見の集約であることに間違いはない。ただ、モデルが提示されたために、それに従うこととなって,やりやすくなった分,それにあわないものは出にくくなったかもしれない。≪6≫その他が、モデルからはみ出す提案を受ける項目として用意はされていたが、【臓器移植、是か否か】という根本的な問いを、十分な議論なしで出すことはできないでしょう。
結局のところ、この問いの扉をさけて横道から臓器移植の園に入り、その中での問題点を検討した,ということでしょうか。しかし、これを理解せずして是か否か、議論はできないわけですから、次なる「市民が考える脳死・臓器移植、第2部」が、もたれることを望みます。
中田 英則(横浜市戸塚区、無職)
「市民の提案」についての感想・意見
1)「市民の提案」として出来上がったものは、簡潔で、どちらかといえば玉虫色がかった、「至極当然のこと」が書かれており、受け取り方によっては、迫力がないように感じられるかもしれません。提案を作成する過程では、もっと強い意見もありましたが、参加した市民の過半数以上の同意が得られた、バランス感覚のある提案であり、そのバランスの「重心」にこの提案書が位置付けられると考えます。延べ4日間の勉強のアウトプットとして、「市民の提案」の2ページという量は少ないようですが中身は重いと考えます。
「提案」の内容は、理想論ではなく、現実論として実行可能なものになっていると思います。
2)「市民の提案」を作成するための事前の勉強として、延べ19人の説明者・情報提供者・専門家からのお話を聴き、多くを学び、貴重な言葉が頭の中には残りましたが、これらの語録を「理解」や「提案」の文中に織り込むことは出来ませんでした。説明をして専門家の方々の中には、そのことを残念に思われる方も居られるかもしれませんが、私たちがお話を理解出来なかったわけではないことを、申し添えます。「市民の提案」を受け止めて下さる関係者の方々には、文面を読み流して頂くだけでなく、できれば、説明者・情報提供者・専門家などが用意して来られた資料やレジュメ、あるいは力説したかった部分の語録や、要点だけでも整理して公表でき、併読して頂ければ「市民の提案」の意味するところが、一層理解しやすくなるのではないかと考えます。
「市民が考える脳死・臓器移植」というイベントに参加しての感想・意見
1)多くの応募者の中から当選し、このイベントに参加出来たことを嬉しく思っています。応募の動機(参加の目的)は、テーマに関心があったこと以外にも、理工系の大学が市民との関わりをもっておられることに興味があり、また、新しいセミナーの進め方が試みられようとしていることにも惹かれました。短く感じた4日間でしたが、参加した目的は充分に達成されました。
2)このイベントに参加することにより、専門家の方々の話を沢山聴くことが出来たほかに、哲学者、倫理学者、科学者、文筆家、医療関係者など多方面の方々が執筆された図書や投稿、インターネット上の意見記事などをたくさん読むきっかけにもなり、豊富な知識を得ることが出来たと満足しています。
3)イベントを通じて知識の獲得だけでなく、若松先生を始めとして、若い研究者やファシリテーターを務められた人たちの企画力、話術、統合力など、有能さと仕事への熱心さに感銘をうけました。たとえば、キーワードで取り交わした複数の意見を、一つの文章に仕上げる手際の良さに感心しました。
4)専門家としてお話を聴かせて下さった造詣の深い現役で活躍中の先生方も、忙しい中を、ゆっくり時間を割いて下さったことに感謝し、また遠方からも、よくもこれだけの人材を揃えられたと、主宰者の動員力に敬服しました。
5)一方私は、情報をインプットするために費やした時間に比べて、アウトプットの作業に費やした時間が短かったような気がします。すなはち、「市民の提案」を作成するための議論や作業に、もっと時間が割けたらよかったと感じました。こちらが不慣れなせいもあってか、作業をまとめるテンポの早さに戸惑いました。できれば、限られた時間を最大限に使うために、第2日目と第4日目のための作業は、前もって自宅で準備しておき、当日は直ぐに持ち寄って討議と調整作業に入ることも可能ではなかったかと思います。これは、宿題という形で私たちに負担を掛けないようにとの主宰者側の配慮があったためかも知れませんが、もすこしハードな作業を覚悟しておりました。
6)第2日目の作業では、第1日目の専門家の説明を受けた上で質問を作成し、回答は説明を担当された専門家の先生から頂けるものと期待しました。しかし鍵になる質問(KQ)として括られたものが、第1日目と殆ど入れ替わった専門家の方々に出されたため、第1日目の疑問に対する直接の答が得られなかったものが幾つか残りました。質問を作成する際には、その宛先を限定した個別のものと、3日目に出席される専門家の全員に答えていただく包括的なものとの2種類に分けておいた方がよかったかと考えます。前者に分類される質問に対しては、第3日目に出られない先生の場合には、簡単に書面や資料紹介などの形で答えて頂いても学習効果は大きかったと思います。
星野 民子(東京都中野区、会社員)
1.「市民の提案」についての感想・意見について
今回の提案には、時間的なこともあり、個々の市民パネルが提案したかったもの全てを、網羅できてはいないと思いますが、非常に重要と思われる根本的な事についての提案となっていると個人的には思っております。また、この提案の内容のほとんどが、短い時間ではありましたが、十分に議論されたと思っております。
私個人としては、今回網羅出来なかった項目の中にも重要と思われるものがあり、具体的には「家族の同意」の関係や、「意思表示出来る人・出来ない人(年齢的なものも含む)」等なのですが、この事についても多くの方に考えて頂きたいとだけ、ここで特記させていただきます。
それから、この提案の中で“反対派”“推進派”という言葉が使われており、私も議論の中でこれらの言葉を使っておりましたが、“反対派”ではないにしても“推進派”でもなく、実際に医療現場で脳死や臓器移植にかかわりが深い仕事をしている方もいらっしゃる(むしろそういう立場の方が多いかも知れません)ので、表現自体が多少妥当ではない部分もあるかも知れません。
2.「市民が考える脳死・臓器移植」というイベントに参加されての感想・意見について
現在、科学技術の発展に伴い、色々な分野で高度な専門化が進み、一般の人には容易には理解が難しい事が増えていると思います。脳死と臓器移植もその1つだと思いますが、この問題は誰にでも・誰の家族にも突然起こりうる問題でありますので、専門家にまかせきりにするのではなく、一般の人も是非1度は深く考えるべき問題だと思います。多くの人が正しい知識と自分なりの考えを持ち、それを表し、最後までそれぞれの人の意思が尊重される社会に近づくことが出来ると良いと思いました。
今回のイベントについてですが、それぞれの回で、「時間が足りなかった」という感想があり、私もまたそのように感じた1人ではありますが、短い時間の中で一定のレベルの知識を持ち、少なくとも今後今回のテーマである脳死や臓器移植について真剣に考えていかなければいけないという意識を多くの市民パネルのメンバーが持てたように感じましたので、この手法が有効で効果が高かったと言えるのではないかと個人的には思いました。つまり、多くの人が “容易には理解が難しい事”を、短時間に一定のレベルまで理解が出来るという事は、非常にメリットがありますので、この手法により、それが実際に実現出来た事で、この手法が高い評価に値すると思いました。
全体については、以上のような感想です。以降は細かな点で気づいた事や感想を述べさせていただきたいと思います。
1日目のキーとなる質問に「脳死は人の死か」という項目がありましたが、これが臓器移植の中で、脳死者からの移植についての是非がわかれている根本的な問題であると思うので、この質問項目が1日目にあり色々な立場の専門家のお話を聞けた事で、その点について早い段階から問題意識を持って市民パネル同士が十分に議論が出来たのではないかと思います。一方で、臓器移植が脳死者からのものだけではないため、脳死と臓器移植について一緒に考える事が、よいことなのかという問題もあったと思います。時間の関係もあるとは思いますが、1日目に脳死という状態についての説明だけでなく、移植全般についてのお話もあった上で脳死と臓器提供について議論した方が良かったと思いました。手法だけを(今回のテーマとは関係なく)考えると、何の知識もない人同士で一定のレベルまで専門的な内容も理解した上で議論し一定の考えを導く上では、最初に問題の本質部分をキーとして色々な立場の人から説明を受ける事は、非常に効果的であると思いました。
それから、アンケートで何人かの方があげていた、事前資料についてですが、説明者の執筆の都合もあり、全ての資料を事前に配布出来ない点は仕方なかったと思いますが、少なくとも、今回のように専門用語が一般の人にとって難しいような内容の場合、事前に専門用語の用語集のようなものを配布していただければ、もっと説明内容を理解しやすくなったのではないかと思います。
市民パネル同士の話し合いの際に最初にグループ分けをした点については、小グループに分かれる事により、全体会より、みなさんがリラックスして自分の意見も出しやすかったように感じましたし、考えなければならないことを分担したので効率的に、意見をまとめていくことが出来たと思いますので、よかったと思います。
それから、小グループに分かれて作業する際、メンバーを毎回変えていた点も良かったと思います。たとえ半日であっても、同じグループ内で意見をまとめていこうとすると、そこにはある種の協調性(連帯感?)のようなものが出来て、ある程度親しくなると反対意見を出しにくくなったり、(構成する人にもよるのでしょうが)リーダー的な人の意見にまとまったりする可能性も出てくると思います。
その他にも、良かった点としては、議論を出し合う経過で、一人が一つずつ順番に意見を上げていったため、特定の意見にかたよる事もなく多くの意見を出し合えたという事と、これらの意見が付箋紙に本人の書いたものである点があげられます。また、付箋紙を同じような内容や大きなカテゴリーわけをしながら進めていった事も、参加者が意見を整理して考える手助けにもなり、短時間で効果的に意見を集約していく事が出来て、よかったと思います。中でも、付箋紙に本人が短く自分の意見を書くという事は、別の人が集約して書いた場合、本人が言いたかった事とニュアンスがずれてしまう事もありますので、そうならないためには大変重要なポイントであったと思います。
ここまで、良かった点を上げてきましたが、多少改善したらよいのではないか?と思った点もあります。それは、事後に配られる資料なのですが、十分レビューして作成しているであろうと思いますが、発言者の言葉どおりでない場合、多少ニュアンスが違うように感じる事もあったので、そこに改善の余地があるのではないかと思いました。例えばグループでのディスカッションは出来るだけ個人が意識する事なく発言してもらうように現行のままで良いと思いますが、全体会だけでもテープレコーダーに録音するなどして、なるべく発言者の言葉どおりになっていると良いように思いました。
最後になってしまいましたが、今回の経験の中で、一番強く感じた事として、最初にどのような話を聞き、どのような印象を持ったかという、第一印象のようなものや、先入観が、その後も大きな影響を与えるように思いましたので、専門家でない一般の市民にとって、専門家の間でも意見が分かれているような問題については、出来るだけ早い段階(出来れば最初)に異なる立場の専門家からお話を聞ける機会がある事が望ましいと思いました。
藤本 卓磨(東京都品川区、学生)
「市民が考える脳死・臓器移植」の市民パネルのひとりとしての感想 市民として考えたこと
この会議をひとことで表現するならば、参加者自身が社会を考える実験であったように思う。市民パネルが市民として社会をどのように考えていけばよいのかを模索し続けた実験であったように思う。
本稿では、市民が専門家と討論をすることの意義について考えてみたい。市民パネルの意見を一部の市民としての意見だと見てしまっては、その意義は過小評価されることになってしまうだろう。評価されるべき点は二点あると思う。一点目は、今回の成果、つまり市民パネルが市民としてことばを語られる背景やことばが及ぼす影響に注意するようになったこと、このことこそ評価されるべきである。二点目は、専門家の方も今回の市民パネルに影響を受けていたことも評価されるべきである。この二点についての意義についてよく検討してみる必要がある。今後は、市民が専門家と討論する意義を社会で認知されるようになるように、いろいろな取り組みが行われるべきである。
1、市民パネルは市民の一部でしかないのか
本会議が掲げる題名「市民が考える」という表現を使うのは避けたい。なぜなら、今回選ばれた市民パネルは決して市民の代表であるはずがない。たとえどのような手続きで選定を行ったとしても、選ばれた人たちのみの意見を一般市民の総意とみなすことはできない。
今回の市民パネルに対して誤解を招く表現が見られた。特定の意見表明するために、政治的な主張をするために市民パネルが集まったように表現されていることがあった。
毎日新聞の記事(3月6日朝刊)では「市民団体が提案」という見出しで報告していた。この表現は、今回の会議が特定の意見表明をする団体が行ったものだとの意識を読み手に与えてしまっている。題名が「市民が考える」としてあったことも、このようなミスリーディングにつながってしまったのではなかろうか。
また、ある専門家は、市民パネルを「医療不信」の集まりとしてとらえて会議後、発言しておられた。「医療不信」ということばは不適切なことばである。そもそも信用・不信ということば自体あいまいなものである。一方的な決め付けのようにしか思えなかった。市民パネルの人たちを適切なことばで表現するならば、医療に関心をもっていたひとの集まりだといえるだろう。
その専門家は市民パネルと対比して、一般のひとびとはまったく脳死・臓器移植に興味・関心を持っていないとも発言していた。この会議は一部の特異なひとびとの集まりであるので、議論の結果もとくに重く考える必要はない、と考えているように思えた。
このように今回の集まりを一部の市民の集まりであるだけとみなしてしまうと、議論の成果はけっして市民の総意とは言えないので、この会議の社会的位置づけが低下してしまうのである。
2、市民として考えて発言すること
何よりも今回の取り組みの成果は、市民パネルが市民として発言することを心がけるようになったことだろうと思う。
参加者自身が市民として何を発言すべきかに注意して発言していたのではなかろうか。ある特定の決め付けた意見を主張するのではなく、社会の構成員のひとりとして何を考えるべきかを問うていたように思う。
市民パネルは偏った意見を主張するのではなく、社会の構成員として中立な立場の発言を心がけるように、回を重ねるごとになっていったように思われる。中立な立場で発言しないと、ほかの市民パネルから異議を唱えられていた。
たとえば、つぎのような発言には異議を唱えられた。「医師は安心を与えてくれない」、「医療研究を本気になって進めていない」、「文化からの観点からもっと捉えるべきだ」、「東洋医学の成果をもっと取り入れるべきだ」などの発言だった。感情的な表現が入ると、どういうことを言っているのかを、ほかの市民パネルから再度説明を求められる。また、あいまいな表現、解釈に幅が出る表現があっても同様である。
市民パネルは論点をはっきりしようと苦労を重ねていた。論点をはっきりさせないと、市民パネル同士の話がまったくかみ合わないのを何度も体験し学習した。市民パネルは表現方法に注意を払うようになっていたのである。
論点や表現方法について、不適切な論点、表現を逐一改めていくことで、適切な論点・表現方法を探していく作業を市民パネル全体で絶えず進めていた。このことは重要なことだと思う。適切な論点・表現方法はなかなか見つからない。だからこそ、不適切だと感じた相手の論点・表現方法について、どのように改めていけばいいのかを提案していくことが重要なのである。
さらには、自分が考えていることを明確にし、論点を明確にするために工夫が必要であった。最終報告書の文章が作りやすいように、4回目の会合の前までに、わたし自身が事前に自分の考えていることを文章の形まで表現し持ってくればよかった、と反省している。時間内で考えをまとめ文章に纏め上げるのは至難の業である。だから、事前に文章にするまでとことん考え抜いて論点をはっきりさせる作業をしておくべきだった。
論点をはっきりと打ち出すこと、自分のことばに自覚的になること、どのように受け取られるかを考えながらことばを慎重に選んで発言することの大切さを学習したように思う。さらに、不適切な表現方法・論点については意見を互いに出し合い改めていくことが大切であることを学んだように思う。
3、専門家自身のことば・論理を検討すること
本イベントは、専門家が専門領域以外のひとびとに対してコミュニケーションをとるという数少ない貴重な体験をする機会であった。専門家自身が自分で使うことば・論理について、市民向けのことばに置き換えて話してほしかった。市民パネルは専門家が暗黙のうちに当然視して使っている論理・前提について突っ込んで議論する必要があった。その点についてここでは二点挙げてみたい。
第一に「脳死と臓器移植をわけて考えなければならない」と多くの専門家が第三回目の会議で述べたことについてである。そのように市民も考えるように求めたのである。その場ではわたしもその通りだと思った。しかし、よく考えてみるとおかしな表現である。そもそもなぜそのように考えなければいけないのかをもっと考える必要がある。
専門家が市民に対して区別して考えることを迫ることで、脳死体からの臓器移植をうながすことにつながるのではないか。そもそも「脳死」「臓器移植」ということばは歴史的に生み出されていったことばである。歴史的には臓器移植の必要性から脳死概念が登場したととらえることが可能である。歴史的連続性を考えずに「脳死」「臓器移植」を区別して考えることは、脳死・臓器移植の現状を安易に肯定するだけに終わる可能性がある。だから、そこまで考えないで区別して考えるべきだというのは歴史的背景を無視した主張であるように思う。
このことを考えることで、ことばが語られている背景、そしてことばが及ぼす影響をわたし自身考えられさせた。後になって考えると、この点について突っ込んで専門家と討論してみたかった。
第二に、法学者町野氏との議論についてである。
法学者町野氏の話し方は、かなり早く論理を展開し、聞き手に噛み砕いて理解をする余裕をあたえない。わたしはもちろんのこと、ほかの市民パネルもついていけなかった。専門領域では当然と思われている話であっても、市民向けにことばを置き換えて話してほしかった。
わたしはこのことを町野氏との討論するはじめに述べた。その後は、意識してややゆっくり話をしてくれていた。しかし、それでも市民パネルとしてわからない部分、理解しかねる部分多数出てくる。わたしがわからないことは何回もことばを少しずつ変えて同じ質問を繰り返した。
市民パネルとして、論点を明確化するために、わからないことは何回も繰り返し、自分自身は何がわからないのかを明確化しようとした。その作業を通じ、専門家と自分の考えの違いをはっきりさせ、その点を専門家に対し何度も質問内容の変化をつけながら質問した。専門家のことば、論理に納得いかないところが多くあった。専門家自身が自身の用いることば・論理を相対化させる必要性があった。
何回かの質問のやり取りを通じわかったことがある。町野氏は生死の区分の必要性があることをしきりに強調していた。生死の区分は科学的判断によるものだというのが重要な論拠だというのがわかった。「科学的判断」とはいったいどういうものなのかをもっと詰めて議論するべきだったと、後で反省している。この「科学的判断」にいろいろな前提や歴史的に生み出された事実が多数詰め込まれているように思われる。
第三回目の死の判定をめぐる議論で、科学によっては言い尽くせない生死の側面を強調し市民パネルに大いに影響を及ぼしていた小松氏がいなかったことは非常に残念だった。町野氏の議論と小松氏の議論は徹底的に噛み合わない部分が存在する。小松氏が参加していれば、これを浮き彫りにすることも可能であったように思う。市民パネルの考えも大きく変化し、最終発表も違ったものになっていただろうと思う。
専門家と市民パネルとのやり取りを通じ、専門家が話している論理について疑問があったときには、専門家と自分の意見の違いがはっきりするまで何度も繰り返し議論することの重要性を学んだように思う。
4、社会に何を投げかけていけばいいのか
市民パネルは最終発表をメディアで取り上げてもらいたいという意識をもっていたのではないだろうか。
取り上げられた毎日新聞の記事(3月6日朝刊)では、「提供者本人の意思表示必要」と見出しがのっていた。この見出しには非常に違和感が残った。これがわたしたちの行った会議の成果を見出しで表わしたときの結果であったと思うと残念な気持ちになる。見出しを見た読み手は、見出しにある合意を目指して合意を作り上げていったとしか読み取れない。
そもそもわたしは合意を目指していたわけではない。専門家と非専門家・市民が討論しあう、そのこと自身の意義を深く考えることこそが重要であると考えた。報道された記事だけでは、そこまで社会には伝わらない。
この新聞記事を読んだとき、専門家と非専門家とのコミュニケーションの意味を表現し社会に発信する能力をマスメディア自身がまだ持っていないのではないかと感じた。得られた合意文書よりも、市民パネルがことばに悩み考えつづけたこと、論点を明示するのに苦労したことをマスメディアは社会に発信してほしかった。
記者の方はこの会議を市民の合意を形成する装置としてとらえたのかもしれない。このような会議は市民の合意を形成する装置として機能してはならない、とわたしは考える。容易に合意を得てはいけない問題を扱っている。だからこそ、専門家と市民が討論することでどのような困難が生じたのかということこそが重要なのだと思う。
記者の方だけの問題ではないとも思う。このような会議をすることの意義を参加者自身がよく考え、表現していかなければいけないと思う。
わたしが考える市民参加会議の意義は以下のようになる。
- 専門家が自分の専門領域以外の非専門家とコミュニケーションをする貴重な機会であること。
- 参加者はことばが語られる背景、ことばが与える影響に十分配慮しなければいけない、このことを学習する機会であること。
- さまざまな立場の人が議論のできるように論点を明確にするように常に心がけなければならない、このことを学習する機会であること。
このような意味をもつ市民参加会議を今後育てていく必要がある。さらには、この意義を参加者自身が考え、社会に発信していく必要がある。このことを通じ、専門家や一部の人たちのみで狭い範囲で議論されている現状を変えていくことができる。
予防原則の例を挙げる。そもそも予防原則的発想は、かつて日本には存在しなかった。水俣病、薬害エイズなどの経験を通して、予防原則的発想、つまり控えめな政策決定を下すことの意義を社会で共有するようになった。このことと同じように、市民と専門家が討論する意義が社会に認知されるようになればいいと思う。
今回の市民パネルの方たちは、せっかく専門家と討論するのに慣れた。最終報告書としてまとめるだけではなく、さらに、今回の参加者でテレビ討論をしたりしたら面白いだろうと思う。今までのテレビ討論は討論に慣れていない市民が登場するので、専門家側の一方的な主張で終わっているものが数多い。今回の参加者でテレビ討論をするとなると実現にはいくつかのハードルがあるだろう。このハードルを乗り越えるのも社会実験としてあっていいのではないだろうか。(以上のような話は夢のような話であると思う)
今後とも、社会に認知されていない市民参加会議の意義自体を広く発信していく試みを続けていくことが必要性であることを強調して、本稿を終わらせていただきたい。
最後に、いろいろ心遣いをしておられた主催者の若松氏、専門家を集めるのに苦労された林氏には特に感謝申し上げたい。わたし自身、いろいろ物事を考える有意義な時間を過ごさせていただきました。準備をなさってくれたみなさま方、どうもありがとうございました。
中村 知恵子(東京都大田区、会社員)
(1)「市民の提案」についての感想・意見
「市民の提案」を今、改めて読んでみると、この部分ではこんな意見をたたかわせた、あんな議論があったということが鮮明に思い出される。4日目、記者発表の時間を過ぎ、煮詰まった状態の中であれもこれも提案の中に盛り込みたいと奮闘していた自分を思い出す。出来上がった「市民の提案」は紙にするとわずか3枚。しかし、ここには表われない数々の議論や作業途中の模造紙に貼られた莫大な数の付箋のひとつひとつが、いつまでも私の心の中から消えることはないであろう。
「市民の提案」の出来には、満足している。正直、よくここまでまとめられあげたと誇らしく思っている。素人にとって十分すぎる出来ではないかと思っている。
ただ、細かい文言にとらわれ過ぎた感じはするし、市民として自らが主体的に出来ることをもっと盛り込めたら更に良かったのではないかと感じた。私自身は一貫して「もし自分だったら?」ということを念頭におきながらも一般化しながら議論に参加できたことは良かった。
この「市民の提案」は今後、どのように生かされていくのであろうか?何らかの目に見える形で政策決定に反映されていくよう、願っている。
(2)「市民が考える脳死・臓器移植」というイベントに参加しての感想・意見
はじめに
いつも行く郵便局のかたすみにドナーカードが置いてある。ついこの前まで何でもなかったそのドナーカードが、このイベントに参加してからというもの、私に何かを訴え続けている。
市民パネルとして参加したこのイベントについて思うことを、テーマとイベントの進め方についての観点から申し述べたい。
1.脳死・臓器移植というテーマについて
これ程人々の価値観が異なる、大きな社会的テーマを市民が考えるこのイベントのテーマに設定したことは、大きな挑戦であり、とても意味があることだと思う。新たにわかったこと。「善意」や「命のリレー」という美しい宣伝文句の裏で、臓器摘出の際の脳死患者に麻酔が打たれているという現実に大きな衝撃を受けた。臓器移植法が作られ、適用されつつも、多くの人が心の中にひっかかる何かを感じ、脳死は人の死なのか割り切れなさを感じていることに改めて気づいた。そして、知識を得て更に深まった疑問 −−− ラザロ兆候は生きている証拠?それとも死んでいる証拠?−−− これからゆっくり考えていこう。
2.イベントの進め方について
☆ 時間 ☆
「時間が足りなかった」という意見は、毎回のようにあがっていた。確かに時間が足りなくなり、せかされて半ば強引にまとめあげた感じはする。特に最終日はきつかった。
しかしながら、もっと時間を長くさえすればいいかというと私はそうは思わない。時間をかけさえすれば、必ずしも良いものが出来るわけではないし、物理的にも時間を延ばすことは無理であろう。限られた時間の中で成果物をまとめ上げるのも市民パネルに課せられたことだと思う。ただ、時間配分、スケジュールに余裕をもたせる必要はあったのではないであろうか?
☆ ルール ☆
「市民パネルにもっと自由に議論させるべき」という意見もあったと聞いている。しかし、ともすれば自分の主張に専念しがちで冷静さを失いがちな市民パネルにとって、一定のルール、制約は必要であった。事務局は、議論の方向性について特定の意図がないことを繰り返し説明し、グループ分けなども公平に行った。これは大変評価されることであると思う。欲を言えば、グループ分けの際、全員とあたれるよう機械的な分類をしても良かったのではないか。
今回は、コンセンサス会議をベースにしたディープ・ダイアログ方式が取り入れられたが、大変興味深かった。ただ、慣れない方式ゆえ戸惑いもあった。また、今回は個人的な体験談や見解に固執するパネルがいたことも事実であった。パネル全体として普遍的な話し合いができるような、参加者への意識付けを検討する余地があると思われる。
☆ KQ ☆
2日目にまとめ上げたKQは、「市民の提案」を作る上で鍵となる重要なものであった。しかし、このKQは十分生かされなかったような気がする。3日目の専門家からの回答の際、このKQに答えていなかったり、一方的に自分の主張を述べるにとどまったり、KQとは直接関連性のない統計を繰り返すのみの一部専門家がいたことは事実である。このイベントの目指すものや、KQについての十分な趣旨が全ての専門家に理解されたわけではなかったようである。何のためにKQを作ったのか、あれではわからない。KQの出来に満足していただけに、少しがっかりした。
☆ 専門家 ☆
1日目に6人、3日目に9人、これほどの専門家が一堂に会する機会は珍しく、話を聞けたことは非常に貴重な経験であった。特筆すべきは、小松さんの話。「最後の一人になっても、臓器移植に反対しつづけます」「何かが語られている時に、何かが語られていないという事実を忘れてはならない」人生を揺さぶれる大きな衝撃を受けた。
専門家との対話はこのイベントのひとつのハイライトであった。ただ、専門家はどこのグループでも同じような質問をされ、同じ答えを3回繰り返すに終始した感じがする。全体会で、パネルとして共通の質問を投げかけたあと、更に話を聞きたい人のところに分かれる方法でも良かったのではないか。市民パネルが情報を得て、考えて、提言を作り上げるプロセスそのものが今回のハイライトだったことは間違いない。
☆ ファシリテーター ☆
限られた時間とルールに則り、その役割を見事に演じきったファシリテーターの労をねぎらいたい。特にグループ討論で一緒になった、庄嶋さんと三上さんの議論の進め方、まとめ方は特筆すべきに価すると思う。おかげで有意義な時間を過ごせたことを感謝している。
☆ 事務局 ☆
準備から当日の設営、飲食の対応など、全てが滞りなく進んだ。誰もが親切で、一丸となって事務局業務にあたられていた。お疲れ様の一言である。
以上、この種のイベントに更なる発展を願っていくつか申し述べたが、全体としてみれば私は今回のイベントに大いに満足している。
イベントを終えた今、そしてこれから
改めてこの素晴らしい社会実験に参加できたことに感謝している。パネルとして活動中の1月から3月に重なるように、脳死者からの臓器移植が頻繁にあり、初めてドナーカードの拡大解釈が行われるなどの動きがあったことは、とても偶然とは思えない。
脳死・臓器移植は誰にでも関係のあること。市民パネルとしての活動を終え、日常生活に戻った私は、これからもずっとこの問題に関心をもち続け、考え続けていきたい。最近、この種の報道にはめっきり敏感になったが、近々行われるであろう法改定についても、市民の立場で監視しながら心で感じたことを大事にしていこうと思う。
金光 直美(千葉県浦安市、医師)
市民パネルに参加しての感想
1日目の基礎知識の学習は、時間の節約の意味からも、各自資料を読んで勉強しておくことだけで十分だったと思います。
3日目、専門家の人選は、妥当なところでしょう。 政治家がいればなおよかったとは思いますが。
ブレインストーミング後、重要な問題を選択するために議論する時間、まとめる時間が少なく、議論が散漫になってしまったような気がします。 とくに、専門家から話を聞いてなにがわかったか、をまとめた時には、専門家から聞かなかった問題は、切り捨てたいと思いました。
それでも3日目までは、淡々と予定の課題を手分けして消化してそれなりの成果をあげたという気がします。 それと同じような感じで4日目も分業で作業が進められたのには、不満が残ります。 なぜなら、「脳死を人の死として認めるか否か、そして脳死者からの臓器の摘出を認めるかどうか」という問題は、他の問題と同列であるわけはなく、これをはっきりさせなければ、議論が骨抜きになってしまいます。 すべての議論の前提かつ結論になるものだと思います。
したがって「市民の提案」としてできたものも、議論が煮詰まっていないという印象はぬぐえません。 市民として4日間を費やして考えた結果、少なくとも今の時点での最適の選択はこうではないか、という説得力のある提案が示せなかったのは、たとえ意見の一致をめざすのが会の目的ではなかったにしろ、残念です。
とくに以下の点について、その感を強くします。
まず、脳死は人の死であるのかどうか、市民としてはどう考えるのでしょう。 そして、臓器移植は他の治療方法がないと専門家が言うから、それだけの理由で認めるのでしょうか。 また、脳死判定基準には異論があり、脳死を医療従事者さえ理解していないと言いながら、脳死を十分に理解した人が臓器提供の意思表示を行うべき、と提案することに居心地の悪さを感じます。
まとめの意見
いくらまだまだ情報が不足しているとはいえ、一般市民としては最大限の知識や情報を得たのですから、脳死移植を認めるのかどうか、われわれが何らかの態度を表明できなくて、他のだれにできると言うのでしょう。 専門家の間でさえ、意見の相違があるのだから……、と考える人もいますが、医者にしろ、法律家にしろ、社会学者にしろ、みな、それぞれの狭い守備範囲において詳しいだけで、すべての方面にわたって精通している人はいません。 その守備範囲以外においては、われわれ市民と同程度の経験であり、かつ専門領域外の視点から問題を把握することがむずかしいし、そうすることを期待されてもいません。 したがって、専門家に決められないのだから、一般市民に決められるはずがないのではなく、むしろ一般市民だからこそ、自由に考え、議論し、決められるのだと思います。 もちろん、今回議論されることのなかった宗教、死生観、限られた医療資源の分配の問題など、まだまだいっぱい考慮したほうがいい点はあるでしょう。 でも、問題は、将来の問題ではなく、今の問題なのです。 きのう脳死の判定が行われ、きょう臓器が取り出され、患者や家族は、現実に振り回されています。 法律も変更されようとしています。 だからこそ、とりあえず、今ある知識、情報のみで結論を出さねばならないと思います。 そうしなければ、一般市民の思いとは関係のないところで、ものごとが決められてしまいます。 もし、あとでその結論をくつがえすような事実が出てくれば、そのとき、その結論を変えればいいと思います。 大切なのは、いま、どうすべきかの意見を持ち、それを表明することです。 今回はそのための絶好の機会でしたが、それを活かすことができなかったように思います。 主催者は、コンセンサス会議になることを恐れ、避けたのかもしれませんが、できれば、その方向に議論が発展するように導いてほしかったと思います。
最後に付け足し
医療に関連した問題は、自然科学の問題ではありません。 同じ薬剤を同じ量投与しても、ひとの反応はさまざまです。 同じ医師が同じ手術をしても結果が患者さんによって違います。 脳死判定にしても100%正しい方法はないし、100%成功する手術もありません。 そもそも成功したかどうかも、厳密にいうとわかりません。 完全な治癒を医療に求めることは無理な話です。 だからこそ、議論する余地があり、個人の選択の余地があるのだと思います。 そして、あきらめるしかないことも。
山崎 吾郎(大阪府茨木市、学生)
感想と意見
(1)「市民の提案」についての感想・意見
全体を通じて、限られた時間の中で多くの論点について市民の合意が得られていることは評価できるのではないかと思いました。もちろん、ファシリテーターや主催者の対応も含めて、参加者の協力の賜物だと思っています。
ただ、いただいた「市民の提案」の文面を読み直して最初に感じたことは、内容が非常に一般的なものである、というものでした。良し悪しは別にして、市民が集まって提案を作るということの独自性なり特徴が、提案の内容に反映されているようにはあまり感じませんでした。提案されていることのうち、多くのことはすでに言われている(言われてきた)ことの繰り返しであるようにも感じます。もちろん、参加した一般市民が合意のプロセスを経て作成した提案であるということを積極的に評価すべきだと思いますが、その具体的な経緯はあまり文面には反映されていないように感じました。
文面が一般的なものになってしまった理由を一つ挙げるとしたら、合意(コンセンサス)を得るプロセスに時間がかかり、各論や少数意見をほとんど提案の中に盛り込めなかったということがあると思います。時間の都合で各論や少数意見の検討が後回しになってしまい、結果的にその多くが合意のための検討議題にあがらなかったのは残念なことでした。
また、提案の文面だけを読むと、なぜそのような理解に到ったのかが判りにくく、文章として説得力に欠けるものもあるように思います。この点について、短文形式の提案によって会議の成果を世に問うことが効果的なのかどうかを考える必要もあるのではないかと感じています。というのも、提案を作成している段階では一言一句にさまざまな論点や意味を込めたつもりでいても、何度も議論をまとめ直して抽象化する作業を繰り返した結果、非常に一般的で常識的な文章が出来上がってしまったという感が否めないからです。切り詰めた表現になっているために、中には文面を読むだけでは提案の根拠が不明なものもあるように思います。少し長い文章を作成するなどといった、提案の形式についての検討があった方がよかったのではないかと思います。
出来上がった文面がシステマティックに作り上げられた、単調なものであるという印象も持っています。この原因の一つは、「参考までに」と事務局側から出された「市民の提案のためのモデル」に、参加者一同がそっくり乗ってしまったことにあると思います。もちろん実際問題としては、提案のモデルを検討する時間的余裕がなかったことが大きいと思うので、仕方がない部分かもしれません。ただ、どのような文面にするかについて、会議の中では「国語の問題」と言われたりもして、軽視されていたのではないかと感じました。複数の論点をどのようにまとめて文章化するかは、非常に重要な問題ではないかと思います。文面の作成についても、時間をかけて慎重に議論する時間があっても良かったと思います。
(2)「市民が考える脳死・臓器移植」というイベントに参加した感想・意見
参加して気がついたことや反省点を含めて、感想を述べます。
【1】どのような思いでこの会議に参加しているのか、参加者同士の間でもっと交流や議論があった方が良かったのではないかと思います。市民として合意に基づいた提案を作り上げることが目標であるとあらかじめ明言されていたこともあって、個人的な体験や個人的な思いを吐き出すような機会は、会議を通じてほとんどなかったように思います。市民といっても、会議において合意を目指してふるまうように役割づけられた市民と、それぞれの日常生活の延長線上にある市民のふるまいには違いがあるという実感を持っています。今回の場合は、どちらかというと会場にやってきたとたん、会議のルールにのっとって「市民」という役割が割り振られてしまうという印象がありました。専門家にそれぞれの立場があるように、一般市民にもそれぞれの立場があるということが、もっと考慮されてもよいのではないでしょうか。
この点については、初日に専門家からの情報提供を受ける前の段階で、参加者それぞれの背景や関心などについて意見交換し合う場面があっても良かったのではないかと思います。別の言い方をすると、専門家からの情報提供をまったく受けずに議論することも大事なのではないかと思います。
【2】会議において専門家にはそれぞれの立場があり、彼らは多くの場合「専門家として」発言することに徹していたと思います。しかし、それは主催者の意図したところなのでしょうか。私は、専門家同士で議論をする場面や、専門家が一市民として発言する場面、専門家と市民が混じって議論をする場面がもっとあった方が良かったと思っています。今回の会議では、一方では専門家を「さん」づけで呼ぶことで、専門家と市民の溝を少しでも埋めようといった配慮がありました。しかし他方では、専門家が最後まで専門家として(ある種の知的権威として)ふるまうことが期待されていたのではないかと感じています。その意味では、市民と専門家の間の溝は、むしろ再生産されているのではないかと感じました。ちなみに、会議の中で医師とジャーナリストが「専門家」と同時に「市民」としても参加していたのは興味深いことだ、という感想をもちました。
この会議を通じて、主催者側が「専門家」や「市民」というカテゴリーにどのような概念上の区別(あるいは会議での役割設定)をしていたのかを聞いてみたいです。
【3】アンケートの中に「全体会では発言しにくいこともあったと思う」という感想が寄せられていましたが、発言をためらうような雰囲気や自制心を私も感じました。私の場合は、前述のように「合意を目指して、市民としてふるまう」という要請が大きく作用していたと思っています。もちろんそれは会議へ参加する際の前提となるルールであったわけで、会議の最中も何度か主催者側から「合意を目指して、市民としてふるまう」ことが要請されていたと思います。そのことで、私自身は頑なに自己主張をするよりは、なるべく合意を指向するような意見を言うべきではないかという心づもりを少なからず自らに課していたと思います。一方で、専門家の方々が合意を目指すよりははるかに自己主張を繰り返していたことが印象的でした。この違いは、今回の会議で「専門家」と「市民」に与えられた役割の違いからきているのではないかと思います。
【1】でも述べたとおり、あらかじめルール(役割や目的)が決められた場所に集められた人たちが、日常生活におけるのと同じような意味で市民としてふるまっているかどうかは、難しい問題だと思います。実際、会議が終わってから個人的に話をする中で、参加者の別の面を垣間見るということは当然ありました。この会議は、一般市民が集まってそれぞれの立場から自由に議論を交わしているというよりは、むしろ限定された空間の中で(それを「実験室」と呼んでも良いかもしれません)「市民」という主体が作り出されているという側面があるのではないかと思います。その意味でも、前述の二つの感想・意見と重なりますが、この会議において「市民」という概念をどのように位置づけているのかは、重要な点ではないかと思っています。私自身は、脳死・臓器移植の問題に関して「専門家」と「市民」という対立を反復することには注意が必要であると感じています。
以上、会議に参加して感じた、どちらかというと批判的な感想を簡単に述べました。もちろん、何らかの役に立てばという思いからです。
多くの専門家に加えて16名もの人が集まって短期間で出来る限りの議論をし、意見をまとめることができたということは、大変重要な試みであったと思っています。議論の進行や意見をまとめる段階では、ファシリテーターの方々の役割が非常に重要でした。そして、資料の作成や議事録の作成、会議の準備に尽力してくださった主催者の方々の陰の努力があったからこそ、スムーズに議論ができたのだと思います。勉強させられることもたくさんありましたし、何より有意義な時間がおくれたことに感謝しています。
塩谷 英策(神奈川県三浦郡、学習教室主宰)
「市民の提案」についての感想・意見
短い時間でよくここまで纏められたと思うが、改めて読み直してみると、「市民の提案」は脳死に偏りすぎた観がする。
- 市民パネルが「脳死とは?」「臓器移植とは?」「脳死による臓器移植とは?」等の基礎知識の学習はしたが、共通理解を得ずに話し合いに入ったためかも知れない。臓器移植からのアプローチをもっとすべきだったように思う。
- 専門家の立場でふたりのレシピエントが参加されたが、ドナーご本人またはご家族の参加が無く、臓器移植の際の細かい心理が市民パネルに十分には伝わらなかった事も影響しているかもしれない。
「意思表示」「情報」に関して、
- 『家庭・社会・学校で小さい時から「生きること、死ぬこと」について、また、客観情報をもとに「脳死・臓器移植」について折に触れ話し合う機会を持つべきである。』というような内容も欲しかった。
イベントに参加しての感想・意見
市民が科学の分野に参加し問題提起をしていく事が、21世紀の主流になってもおかしくない。今回の企画がさらに発展して社会に認知され、社会を動かしていくものとなって欲しい。
4日間の流れに関して。1・2ヶ月前の「市民パネル準備会」の必要性を感じた。
- 市民パネルが社会に提言するために専門家から意見を聞いたり、討論したりするはずだったが、いつに間にか単なる自分の学習になっている場面が何度かあったように感じた。この集まりの理念を十分理解出来ていなかったためだったかもしれない。
- 「脳死・臓器移植」ついての基礎知識の学習と、市民パネルが自己紹介も兼ねて「脳死・臓器移植」ついて自己の持っている知識理解、経験さらには「死生観」等をゆっくり話し合う時間が欲しかった。その話し合いの中から3つの質問(今回は事務局が用意した)が生まれてもよかったのかもしれない。グループ討論ではいつも知らない方と話し合っているような気がした。
ファシリテーターの方々・事務局の方々は、市民パネルのばらばらの話を大変よく纏め、時には文章化してくれた。市民パネルはファシリテーターの方々の活躍に頼りすぎた感もある。
奥野 智織(東京都港区、主婦)
脳死・臓器移植に対する私たち市民パネラーの提言は、当初の意気込みからは、想定し得なかったほどに極めて歯切れの悪いものとなった。 みな熱いオトナである。 この一筋縄ではいかない、厄介とも言えるテーマを、4日間に渡りよく学び、自分のアタマで再構築し、何がしかの提言をしようと集まった。なのに、である。 いや、であるからこそ、と私は思う。 自らの信ずるところに従って、真摯に医療活動をされている医師をはじめとする専門家の方々のお話の説得力の高さに、いきおい、移植医療自体の賛否に関して言えば、振れ幅は大きく賛同に傾かざるをえなかったのではないか。しかも、当該医療行為は既に適法化されて既成事実となっている。
すなわち、知らず知らずのうちにも、パネラーの多くが移植医療を肯定すべく理論を模索しようとしたところに、そもそもの不自由さがあったのではないか。
しかし、移植医療について、その是非をも含めて検討するに当たっては、まず、脳死というものの存在を認めることができるのかという点こそ時間をかけて丁寧に論ずるべきではなかったか。ひとたび移植医療を認めてしまったならば、町野教授もおっしゃるように、法理論構成上、脳死は認めざるをえなくなるからである。
かように、この移植医療肯定の大きな波にのまれながらも、我々が必死に死守した提言が、「脳死は死か?」とう問いに対する明確な回答の留保であったのだと思う。あれだけ、識者の話を聞き、理解しようと努め、考え、議論した、にもかかわらず、結論が出なかったという点に、脳死を認めることに対するキモチノワルサが集約されているのではないか。
思うに、脳死・臓器移植といった「ヒトの死」という極めてナイーブかつプライベートな問題を考える上での論理構造は、自然科学の得意とする帰納の領域では対処しきれない。あれも死、これも死、だからこれは死という蓋然性の高さだけをもってして説得しようとしてはいけないのだと思う。換言すれば、脳死も、三兆候死のように、誰の目にも明らかな、「事実」としての「死」と認められたときにはじめて、それを基にした移植医療が考えられるべきであった。
移植医療に限らず、現代では多様な分野において、当該技術は「善い」ものであるとの確信の下に先端技術の実用化が進んでいる。しかし、この「善さ」は、ひとつの時代の、往々にしてその時代においての、ある社会的強者の立場からのものであるということを我々は看過してはならないと思う。
甲斐 通生(東京都荒川区、自営業)
今回のイベントでは、脳死と臓器移植について市民の立場から掘り下げて考えることができ有意義だった。
そこで専門家の話を聞いて考えたことを何点か書いてみる。はじめに臓器移植と脳死との関連を検討し、次に脳死について考えをまとめる。
臓器移植については、臓器提供者の善意によることを条件として認められるのではないかと考えている。死体からの臓器移植は家族の同意があれば、現行法で可能であり、生体肝、生体腎は提供者本人の同意があれば、可能であることは理解できる。
ここで脳死による臓器摘出が問題となる。1.脳死を人の死と認めれば、死体からの臓器摘出ということになるから問題はない。よって脳死を人の死とすることで法的な整合性を保つことができるとする立場である。2.脳死を人の死への不可逆的過程とする立場では、いずれ死を迎えるのは時間の問題ではあるが、現状はまだ人の死とは言えないことによって、この立場から臓器提供、臓器摘出をどう見るかということが問題となるだろう。
このように脳死については脳死を人の死と見る立場、人の死へ至る不可逆的過程と見る立場、人の死とは認めない立場、人の死と認めることに疑問を抱く立場など人によって考えに幅があることが分かった。もし、脳死が人の死であることが科学的に証明されるものなら、そして科学的妥当性が社会に広く受け入れられるとするなら本人の意思表示や家族の同意も必要ないということになるかもしれない。
現在においては、脳死に対してさまざまな立場がある。脳死を人の死として受け入れる人、また脳死を人の死として受け入れられない人、いずれの立場をも考慮しなければならない。したがって本人の意思表示、家族の同意に基づくことが必要条件となる。
つぎに脳死判定基準とその運用の問題がある。脳死判定基準が科学的に妥当なものであるかどうか、検証されなければならない。なぜなら科学、医学の進歩によっては判定基準そのものが変わる可能性があるからである。現在の基準であっても脳波、血流測定をいっそう精密にできる機器の開発が考えられる。そして脳死判定がどのように運用されたか、第三者機関による検証と情報公開が必要である。
脳死をどう考えるかは、個々人の死生観にもかかわる問題である。一人一人による自己決定に委ねられる問題であり、その際、個人の判断に役立つ幅広い情報が身近にあることがぜひとも必要となる。ゆえに脳死・臓器移植の問題は専門家の閉ざされた世界に押し留めて置くのでなく、市民に広く開かれたものとならなければならない。脳死に対する国民の理解が深まり、医療への信頼が増してこそ、脳死・臓器移植医療は国民の幅広い支持を得られるものと考える。
安永 八千代(東京都杉並区、主婦)
「市民が考える脳死・臓器移植」に参加し、臓器移植推進派の医師の方々、脳死はまだ生きているとする反対派の医師の方々、法律家、移植体験者の方々から様々な事を学ばせて頂きました。
そして私たち主婦、会社員、学生、リタイアされた方など、総勢16名が意見を出し合い学びを深めながらまとめ上げたものが「市民の提案」となりました。
しかし結果としてわかりずらい内容にでき上がってしまったと思っておりますので個人的に一般の方々に脳死・臓器移植とはどういう事なのか、研究会での学びをこの場をお借りしてお伝えさせていただけましたら幸いです。
人の死とは肉体と魂をつないでいる細い線(シルバーコード)があり、この線が切れた時が初めて本当の死となります。この線がつながっている限り、人はまだ生きています。この時に身体にメスを入れると血圧が上昇したり手を上げたり目を開けたりするので臓器移植の臓器をとられるドナーは麻酔を打たれたり筋しかん剤を投与されたりします。
「市民が考える脳死・臓器移植」の会でも発表された山梨大学香川知晶先生も『魂というものは医学的にはその存在が確認されたものではないが、魂が肉体から離れた時をもって人の死とする考え方は古今東西かなり広く見られる死に対する考え方である。したがって「人の死」の定義に単に医学的な見方のみから考えるのでは足りず、より広く哲学、宗教、倫理学、社会学、文化人類学等の様々な立場から総合的に考えられるべきである』とおっしゃっています。
又、真言宗智山派僧侶、阿刀隆信氏は著書の中で「知り合いの若い住職の奥さんが脳死と宣告されたにも関らず、生まれたばかりの赤ちゃんの手を奥さんの頬に当てて呼びかけた所、奥さんは涙を流された。偶然かと思い再びやった所、又涙を流されたのです。
脳死状態で肉体は不自由でも魂は理解しているという事ではないでしょうか。魂全体が肉体から分離して死が訪れるというのが自然な考え方です。実験や論証から導き出された科学的法則だけを信じるのは大きな誤りです。死後も霊魂は永遠に続きます。科学的に証明されていないから神仏や霊魂は存在しないと、決めつける事自体が逆に科学の限界を示しているように思います。」とおっしゃっています。
そして今や移植国家アメリカでさえも推進派だったDrたちが長期間行き続ける脳死患者を前に、脳死を人の死とする考えには限界を感じ、次々と主張を180度転換し始めているのです。
あの世や魂、といういわゆる非科学的な考え方を国民がオープンに話し合い患者にとって正しい医療が施される事を願ってやみません。
茂木 勇(群馬県前橋市、公務員・学生)
(1)「市民の提案」についての感想・意見
今回、本件プロジェクトに参加(応募)した動機のひとつは「脳死・臓器移植という難解なテーマについて、素人(市民)がどこまで近づけるものか、また近づけるとするならばそれは何故か、興味が湧いたこと」にあった。
上記を念頭に本件プロジェクトを振り返って鑑みるに、結論から言えば、市民パネルがまとめた「市民の提案」は「脳死・臓器移植という難解なテーマについて、素人ながらかなり接近できた」と考えたい。このように結論づける理由として以下の3点をあげたい。
第1に、最終的に「市民の提案」が完成に至ったこと自体に意義があること
第2に、複数の論点について「理解」及び「提言」を行うに至ったこと
第3に、(私個人の感想として)完成した「市民の提案」に対して、いわゆるオーナーシップに似た感情(愛着と言ってもよい)を感じていること
第1について、本件プロジェクトの成果物として「市民の提案」を作成できたことは、科学技術への市民参加事例がまた1件追加されたことを意味するわけで、まずはそれ自体が重要な意味を持つと考えたい。
その際、とりわけ4日間を通して活動いただいた「ファシリテーター」の果たした役割が極めて大きかったことを指摘しておきたい。彼(彼女)らの巧みな「情報提供」「意見集約」「時間管理」「そそのかし」「確認作業」「ときに挑発?」が無ければ、議論や意見交換に不慣れな市民パネルだけでは最終的なゴールには到達できなかったと思うからである。
第2について、今回の「市民の提案」では、広範な論点を踏まえたうえで、複数の論点について「理解の表明」および「市民の提言」を行うに至ったことが意義深いと考える。
もちろん予備知識を持たない市民が、議論のルールも決めないままに集まっただけでは、恐らく何も生み出せそうにないが、今回のプロジェクトが採用したような「事前配布の基礎資料及び様々な立場の専門家のレクチャー並びに討議」を実施することで、市民パネル間に共通の情報インフラが生成されることが体感できた。結果として、素人にありがちな感覚的な議論に終始せず、議論の質を担保することができたと考える。
また、「市民の提言」のうち市民パネル間で合意に至らなかった箇所について、そのまま両論併記した点も重要であると考える。市民パネル間の意見対立は、社会全体の縮図ととらえることも可能なわけで、この点への配慮は評価できる。
第3について、主催者の設営した会議運営は工夫がなされており、4日間の期間中は個別討議と全体討議がバランスよく配置されていた。そのため市民パネルは、個別討議のあと全体討議において各グループからのフィードバックがあったため、基本的に全体の内容について把握できた。換言すれば、「市民の提案」について、市民パネル16人が等分に責任を負担できるような仕掛けがなされていたと言えわけで、その結果、個人的には「市民の提案」に対するオーナーシップというべきか、「愛着」のようなものを抱くに至った。
「市民の提案」の完成度と「愛着」の関係は定かではないが、市民パネルとして十分に議論に参加できた証左として、(個人的には)納得した次第である。
2. 専門家の感想・意見
守田 憲二(「脳死」・臓器移植に反対する関西市民の会) 「市民が考える脳死・臓器移植−−専門家との対話を通じて」に参加して
(肩書きを「脳死」・臓器移植に反対する関西市民の会と紹介されていたが、正しくはホームページ「死体からの臓器摘出に麻酔?」http://www6.plala.or.jp/brainx/製作者)
1、「市民の提案について」コメント
(1)提案の体裁について
簡略に書いてあるため、意図しない意味に受け取られる可能性があったり、何についての提案か分かりにくい部分もある。また市民パネルが提案をまとめた判断材料は「専門家からの情報提供に基づいて」である。そして検討対象は医学の発展により判断が変わりうるものが含まれている。加えて、十数名という少人数の市民パネルによる検討のため、もともと各個人が持っていた脳死・臓器移植への思考・態度が提案に影響すると考えられる。
つまり提案は「検討できた情報の量と質」「現時点における理解」「市民パネルの固有の傾向」の制約がある。このため「コレコレの情報に基づいたので、次のように理解した」と採用情報の要旨を加えた「市民の提案・詳細版」も提示されるべきと思います。提案の主旨は支持します。以下は、問題点のみ指摘します。
(2)重大な間違い「脳死判定基準に厳密にしたがって判定が行われている」について
市民パネルは脳死判定について「脳死判定基準に厳密にしたがって判定が行われている」と理解した。しかし脳死判定は毎年、国内だけでも数千の患者に対し数百の医療施設で行われている。仮に、市民パネルが脳死判定の全てについて資料を収集して検討したのなら、上記の「理解」をしても支障はないが、そのような検討作業は行っておらず、2名の脳外科医の経験談を聞いただけでしょう。私は下記1の資料は2月26日に提供しています。
- 「千里救急救命センターの太田氏は、脳幹反射消失の時点で脳死発生とし脳不全を悪化させる移植目的の臓器保存処置を推奨」という資料で脳幹反射が消失したら脳死発生とされ、さらに「高知赤十字病院は法的脳死の30数時間前に抗利尿ホルモン投与で血圧210mmHgに上昇」「杏林大病院は法的脳死判定7例目で法的脳死以前からドナー管理」という資料で臓器摘出目的の処置が脳死者を創っている可能性をお伝えしました。
- 判定基準なき新生児、しかも高濃度に中枢神経抑制剤を検出下に脳死判定(富山県立中央病院 小児科)
小児科臨床56巻2号p168-p172(2003年)によると、富山県立中央病院の五十嵐小児科医長らは「我が国では新生児期の脳死判定基準はない」ことを認識している。さらに、この新生児(1948g 女児)に中枢神経抑制剤フェノバルビタールを投与している日齢5に、第1回目脳死判定をした。第2回目の脳死判定は日齢7、この時のフェノバルビタール血中濃度41.6μg/mlであり、「25μg/ml以下であれば脳死判定に問題はないとされている」と脳死判定には高濃度であることも認識しているのだが、脳死と判定した。 - 1回だけの無呼吸テスト、脳波がありながら脳死と説明(神奈川県立こども医療センター 新生児未熟児科)
こども医療センター医学誌33巻2号p101-p105(2004年)によると、在胎41週の男児への無呼吸テストは日齢12に1回のみ実施。鎮静・筋弛緩剤の中止は日齢4である。脳内に高濃度の薬物蓄積が予想されるにもかかわらず、その翌日に脳死判定した。平坦脳波ではなかった。
このようにわずかな実例の提示で「判定基準に厳密にしたがって行われている」という「理解」は崩壊します。患者ごとに数千、施設ごとに数百の異なる脳死判定が予想されるにもかかわらず、その評価作業もせずに「判定基準に厳密にしたがって行われている」と理解するのは、情報評価作業における基本的姿勢から間違っています。もちろん「多数の脳死判定例のなかには、手順上は問題のない判定もある」という理解なら支障はありません。
(3)「脳死と臓器移植を区別して考えるべきか否かについて、両方の意見が出され合意に至らなかった」について
私は第3日目の専門家として参加しましたが、事前の質問書に「脳死と臓器移植を区別して考えるべきか否か」という質問はありません。グループ討論でこの質問が出た時以上に、「提案」にまで書かれたことに驚いています。過去30数年間、「心停止後」と称して脳死と臓器移植が一体となり行われてきた。1967年7月23日に弘前大第2外科が14歳男児を全身冷却して心停止させ臓器摘出した資料を提示しました(移植4巻3号p193〜236)。「脳死」小児からの臓器摘出もすでに百数十例あります。昨年12月、日本小児科学会から「脳死小児から被虐待児を排除する方策に関する提言」が出されましたが、これまでの小児ドナーに虐待の懸念は不要だったのか。このような実態があり、刑法上・倫理上の幾多の問題が想像されるのに、いまさら「脳死と臓器移植を区別して考えるべきか否か」と考える価値があるのか。「知的体操」「観念遊戯」をする余裕を、私は持ち合わせません。
(4)「脳死臓器移植は過渡期的な医療として必要である(と理解した)」について
日本移植学会の臓器移植ファクトブック2004 http://www.asas.or.jp/jst/factbook/2004/fact04_03は、移植39巻1号p58-64にもとづいているが、1998年末までの腎臓移植9,377例のうち回収できたのは6,990症例(2,387症例が消息不明)。さらに得られたデータのなかにも生死不明が 651人、生死について記入の無しが160人いるため消息不明例は合計3,198人、消息不明率は 34%になる。移植を受けた3人のうち2人のデータで、生存率・臓器生着率を検討することはできない。日本臓器移植ネットワーク発足以来のデータhttp://www.jotnw.or.jp/datafile/vol.8/P8.pdfなら「死体」腎移植レシピエントの消息不明率は3.4%なので、移植後8年以下の患者については検討可能になるが、移植1年後の生存率94.4%、移植腎生着率84.5%である。
20人に1人が移植を受けた年に死亡し、6人に1人は最初から移植腎が機能しない・または1年以内に機能廃絶する治療法は、闇雲に推奨してはいけない。透析療法があるので(高度の生存率が確保できた後に始めて)、移植によるQOL改善効果を腎臓移植医療の評価基準にしなければならないが、透析患者と腎移植患者の年齢・透析歴・原疾患を一致させて検討したデータはない。移植を受けたことで透析よりもQOLが低下した事例もある(神戸大学医学部紀要63巻第3・4号p39〜44)。このような腎移植の現実を知るとみられる腎不全医療関係者は、自分が腎不全になる場合に4割しか腎移植を選ばない(腎移植に携わるコ・メディカル研究会による「腎移植についての意識アンケート」)。移植未登録透析患者の6割は移植の意志ないor高年齢(移植39巻5号p581)であり「透析患者増加=移植推進すべき=医療費削減につながる」という厚労省・移植学会のPRはミスリードである。
このように1万5千例を超えて行われた腎臓移植でさえ、科学的な評価は不可能で、医学的根拠は薄弱である。「最重症の臓器不全患者に臓器移植は必要な医療」とは観念的に理解できるが、本当に「移植しかない」患者が何人いるかも不明である(2月26日は心臓・肝臓についても同様の疑問を提示した)。このような臓器移植を推進するため「脳死は人の死か」と莫大な社会的コストをかけて論議する価値があるのか。しかも「心停止後」と称して、臓器移植法以前から脳死臓器摘出を行ってきた。移植19巻6号p470掲載のアンケート調査報告「脳死患者からの腎摘出について」によると、1984年3月中旬までに全国10施設で29例、摘出時の血圧は記載のあった26例中21例が100mmHg以上であったことを報告している。市民の論議が考慮される環境から創る必要がある。
臓器移植は拒絶反応が起きないように、組織適合性のよいレシピエント候補者のなかから選ぶ必要があるが、これはドナー不足を不可欠の仕組みとする。大阪透析研究会会誌21巻2号p183〜193は、01年のレシピエント選択基準変更後、献腎3例に対し270倍:801人の腎臓移植希望登録患者がいても、さらに経済的援助をして登録患者を増やす必要性があることを書いている。腎臓移植は「もっとも経費が少なく収益が大きい」と認識されている(日本手術医学会誌 第26回総会プログラム・抄録集p91)。こうした事情もあり、本当は在来の内科的・外科的治療法がベターな臓器不全患者に対してまでも、「移植しかない」と煽られ続ける恐れがある。
従って脳死判定・臓器移植の必要性を言うなら、同時に「医学的根拠を明確にすべき責務」と「過去の非倫理的・非合法行為の清算」もセットで提案しないと、誤っているかもしれない医療政策が、いつまでも続けられる恐れがある。ハンセン氏病患者を隔離し続けた過ちを繰り返さないよう「取り返しのつく」提案をすべきではないか。
(5)「『最終的に脳死臓器移植を必要としない医療(再生医療、人工臓器等)にしていく』という方向も進められるべき」について
長期透析患者が透析を受け続けられるように、輸入した人体血管が使われ始めました。このようなことを少なくするためにも組織レベルの再生医療の研究が進められるべきです。しかし、今この時に、臓器不全で苦しんでおられる・臓器移植を考慮している方々にとって、何年後に実現されるかどうかも分からない臓器レベルの再生医療、完全代替型人工臓器について聞かされても役には立ちません。腎臓移植経験者の澤井繁男氏は「健常者に身体障害者のことが理解できるだろうか」という趣旨を述べられた。私は、健常者でも、臓器移植に期待する方々のことを知ってくると、今、苦しんでいる方・ご家族への想像力のない話はしなくなると思います。
(6)説明責任「推進派、反対派の双方が討論できる公開パネルの開催が必要である」について
法的脳死判定30例目ドナーからの臓器摘出は、筋弛緩剤と麻酔を投与してから執刀開始したが、胸骨縦切開時に血圧が上昇したのでガス麻酔を追加したこと。さらに脳死患者の不整脈では考えられないアトロピンが投与され、それが効いたことを説明しました(日本臨床麻酔学会第24回大会抄録号、付属CDendai1-023.html)。
最初のグループディスカッションで「心停止後」臓器摘出の実際が、生前から臓器冷却目的でカテーテル挿入し、脱血して冷却液を注入していること。あるいは人工心肺で冷却しドナーを心停止させていること(移植第4巻3号p193〜236)などを説明したところ、「死体」腎移植経験者の澤井氏は、最後のグループディスカッションで「臓器摘出の実際が、そのようなものだと知っていたらドナー出現の連絡がきても退き(ひき)ますね」と話された。
臓器移植を受けたレシピエントは現状を肯定されているだろうが、日弁連が高知赤十字・古川市立・千里救命救急の3施設に、また福岡県弁護士会が福岡徳州会病院に人権侵害の勧告を出した理由を知ったらどうなるか。
渡航移植患者や渡航移植を検討している、あるいは海外で臓器提供を承諾した家族は、米国で家族が臓器提供要請を拒否し治療を求めたところ生還できた事例(総合ケア12巻8号p84〜87)を知ったら穏やかでいられるか。
現時点で脳死および臓器移植について推進・慎重・反対の意見を持つ者が、それぞれ正確な情報を得たならば基本的認識からして改めざるを得ないことが沢山、出てくる可能性がある。「推進派と反対派の討論」にしてしまうと、態度変更ができない方もおられるので「討論」ではなく「情報の整理」という性格で行うのがベターでは。
2、「市民参加型手法:本イベントについて」のコメント
「専門家の情報提供⇒市民パネル間の議論⇒専門家と質疑応答⇒市民パネルによる提案作成」という市民参加手法は、専門的情報の整理と連動すれば、科学技術政策づくりに有効と考えられる。ただし、検討・考慮すべき情報が多い問題においては、4日間計24時間の時間内では、専門家からの情報提供も市民パネルの理解・判断・選択も、十分にはできないため、その科学技術政策を検討するにあたっての課題整理に留まると思われた。
(1)解決策:「達成度に応じた提案の性格変更」or「質問を厳選」or「2倍の8日間開催」or「提供資料充実」
「医学・法学・倫理学・文化など広範囲にまたがる問題」について、基礎から検討しなければならない時は、誰でも疑問が次から次へと湧いてくる。専門用語からして分からない。それらの疑問がある程度、解決できた段階で、より重要な問題が見えてきて、その問題について思考を開始する。このような経過を想定すると、市民パネルが専門家への「鍵となる質問」を作成した2日目は「たくさんの疑問が湧く」段階だったのではないか。
というのは第3日目は専門家から情報を得る最後の日だが、事前の質問書に「脳死者は臓器提供以外に存在意味はないのですか」という質問の詳細版にも説明がない、意味不明質問が含まれていた。個人的質問と思われた。
このような質問が情報収集の最終日となる3日目も出るのは、運営面の問題と時間の制約があったと想像される。
第3日目の専門家は、事前にA4用紙2ページの質問を受け取ったが、その回答は「A4用紙1枚にまとめ7分程度で要旨を述べよ」と指示された。質問の2分の1のスペースで、回答できるわけがない。このような時間・紙数制限をするのであれば、質問自体を3〜4問に厳選しなければならない。専門家の意見交換でも、私は時間が少ないことを理由に2回、発言を遮られており、十分な説明ができていない。解決策は、見出しのとおりです。
(2)専門家の人選の偏り
法学者:「心停止後の臓器提供は、死体損壊の問題として考える」と情報提供した法学部教官がいた。あまりにも無知。「心停止後」と称する臓器摘出の法律問題は丸山英二氏(神戸大学)のように、検討している法学者もいる。
内科医、当事者:心臓内科医の渡部良夫氏は「脳死・臓器移植に反対の医者は迫害を受けている」と述べられた。神経内科医の古川哲雄氏は「脳死患者に本当に意識はないのか?」という論文を書いたが、日本神経学会総会への発表を2年連続で拒否され「神経内科」54巻6号p529-533に発表した。「脳死」・臓器移植に反対する関西市民の会主催の講座に、大学病院の神経内科医はペンネームで講師として来ている。学問的に検討する環境さえ、損なわれつつある。今回、専門家のなかに神経内科医や脳生理学者、消化器系の内科医はいなかった。
腎移植経験者と臓器移植コーディネーターは計3名も呼ばれたが、脳死とされ長期療養中の患者家族は1名もいなかった(脳死小児の回復例にあるように、脳死とは正確な用語ではなく、脳不全というべきことを強調します)。臓器移植に期待する当事者・家族や移植コーディネーターの話も、当然聞くべきですが、法改訂によっては治療打ち切りの危険に直面させられる当事者の声「この子を死体にしないで下さい」を聞き、可愛い服を着せられて眠っている写真や手足を動かしている写真を見たなら、市民パネルは今回と同じ「提案」に至ったのでしょうか。
(3)事務局スタッフの傍聴手法も洗練されるべき
市民パネルとの対話時に、見知らぬ男が、いつの間にか私の背後に来て、しかも「覗き込む」挙動をしていた。呑気な人であっても、見知らぬ男(事務局スタッフであろう)がそのような行動をしていたら警戒する。例えば複数の固定ビデオカメラで撮影する、あるいはカメラチームを設け随時撮影させてもらうことに了承を得ておく、傍聴人の着席位置指定などすれば、安全を確保できるとともに、研究のために正確な記録を得られるでしょう。
町野 朔(上智大学大学院教授、刑法学)
「市民が考える脳死・臓器移植」に参加した感想
1 企画の意図
(1) 私は、第3日「専門家と対話する」に「専門家」としてリクルートされた。確かに私は度素人ではないのかも知れないが、これまで自分を「専門家」と思ったことはなかったので、少なからぬ違和感を覚えた。自分は問題との接触の強度と期間が大きいだけの「市民」のつもりでいたのだが、皆さんはそうは見てくださらないのだ、「町野案の町野」と思っていられるのだと思うと、急に自分の老いを自覚させられたようで寂しかった。
しかし、市民パネラーの方はいずれも真摯に議論に参加され、私も自分のできる範囲のことを精一杯やったという満足感で、心地よい疲労感に酔うことが出来た。皆様方がどのように思われたのかは分からないが、私は皆様に心から感謝している。その後、4月5日に自民党・公明党の「臓器移植検討会」にもお呼びいただいたが、そのときは満足のいくようにできずに、自分自信に腹が立ったので、なおさら楽しい思い出として残っている。「結果を考えずに、思い切って振っていく」ことが一番いいのだろう。
(2) それでも、今度の企画が何を目指していたのか分からぬままであった。最初はコンセンサス会議の一種で、市民レベルでの合意形成を目指すものだと思っていたが、「そうではない、コンセンサス形成の技術を探る研究なのだ」ということを林真理さんからうかがった。ところが、「市民パネルの達した合意は、脳死・臓器移植には本人の提供意思の表明が必要であるというものであり、立法者はこのことを考慮して貰いたい」という趣旨のことを若松征男代表が述べたという新聞報道を読んで、また分からなくなった。これは「市民パネル」であり、その得られた「合意」が意味があるということなのだろうか。
そもそも「社会的合意」「コンセンサス」「対話」とは何なのか、どのような意味があるかを、十分考えることなく物事が始まったことが、趣旨が今一つ明確でなかったことの一因ではなかろうか。もちろん、誰もこのようなことは分かっていない、分かったつもりになっているだけなので、仕方ないことなのかも知れない。ひかし、もう少し主催者側のこの点に関する考え方が伝えられていれば、さらに私の満足感も増加したものと思われる。市民パネラーの方は、どのような意図で、このイベントに参加させたのだろうか。
2 議論の進化と深化
(1) 当日お目にかかった「専門家」の方々は明らかに別であったが、私は、脳死・臓器移植に関する識者の議論は、一般的にいえば、1968年「札幌医大心臓移植事件」当時より退化していると思っている。そうでない人たち、「一般人」はどうなっているのだろうか。彼らはどのような意見を持っているのだろうか。プログラムの終了時に、どのように考えるようになるのだろうか。
参加された「市民」の方たちのご議論は、当時よりははるかに深くなっていた。そして、現在の専門家のそれと遜色ないレベルにあった。人々の意識は確実に高まっている。しかしそれは、味方によれば、ダウンした水準に追いつこうとしているのに過ぎない。そして、現在の議論を変え、先に進む動きがあまり見られなかった。議論の仕方も、識者の本、マスコミの論調と殆ど変わらない。何よりも、自分の感覚・感情とは異なる人々がいることを理解し、それと議論しようという用意がないという印象を受けた。いわゆるオープン・マインディッドではないのである。「問題の性質から仕方がない」というべきではない。まさにこの問題だから、それぞれの人たちの人生を理解しなければならないのである。もちろん、理解することと賛成することとは別である。
以上は年寄りがよく言う文句の類であり、しかも今回のイベントに限ったことではない。しかし、そうだからといって、以上の印象は印象である。
(2) プログラムの始まったときと終了したときとで、市民パネルの方々の中には、意識の変化があった人と、そうでない人とがあるだろう。しかし、この問題にかなり長いこと関心を寄せてきた年寄りとしていわせていただくなら、いかに有意義な議論を体験し、理解したとしても、所詮は4ヶ月の間の、計4日の出来事に過ぎない。その結果が出ることがあるとしても、かなり先のことだろう。いつまでたっても、何も出て来ないこともあるるかも知れない。一夜漬けの試験勉強と同じ効果を期待してはならないのであり、意識の変化は、いろいろな人の人生に、触れることなしには生じない。もちろん、だからといって今回の企画の意義の大きいことを否定できるものではない。
私は、「脳死臓器移植」を単なるディベイトのテーマとして考えなくなったときに、始めて考えることができるようになると思う。しばしば、私は「好戦的」といわれる。これが、あながち的はずれの評価ではないことは自覚している。参加された皆様には不愉快な思いをさせたこともあるかも知れない。しかし、私は論争自体を目的としたディベイトを行っているつもりは最初からないことは、理解していただきたい。これからも、よろしくお願いしたいと思う。
3 議論の継続
このようにしているときにも、移植待機者は死んでいく。少なくとも、日本において生きる機会を奪われている。これが倫理的に正しいことであるというのであれば、受け入れなければならない。しかし、慎重に議論しなければならないから、合意が得られていないから仕方がない、というのでは、彼らも、我々も納得できないだろう。我々は、態度決定を迫られているのである。確かに議論することには意味がある。しかし、議論することだけに意味があるわけではない。
議論の継続は必要である。今回のような試みは続けられる必要がある。しかし、議論が尽きた後でなければ決定してはならない、というのではない。決定しながら議論を継続し、議論しながら決定しなければならない。どのような決定であるにせよ、議論の結果それが誤っていることが分かったなら、別の決定をしなければならない。
「市民が考える脳死・臓器移植」が、議論する意味を理解するものになってくれれば、リクルートされた者としては、大変嬉しい。
小林 繁樹(千葉県救急医療センター脳神経外科部長)
『市民が考える脳死・臓器移植−−専門家との対話を通じて』に参加して
私は当日に何回か繰り返させて頂いたように、移植医療自体に対しては中立の立場でした。そして、救急医療の現場において、脳死判定を数多く行っている臨床医として、純粋に『脳死』の意味と問題点に的をしぼったお話をさせていただきました。
市民パネルの結果を拝見して私が感じたのは、情報をしっかりととらえて、じっくり考ようとする意志を持っている方々に対して最も重要なのは、当然のことながら提供する情報の質の管理である、ということです。すなわち情報提供側がある問題に対して明確に賛否の意見を持っている場合には、その根拠を形成する事象に対してまで遡って修飾をしてしまう傾向があるわけですが、情報を受け取る側はそれが修飾された事象ではなく事実と受け取って、そこから思考を開始してしまうわけであり、そこに大きなリスクを感じました。特に身近な問題についてであれば、情報の質を嗅ぎ分けることも可能ですが、難解な問題に対して『専門家』という肩書きの人から得られる情報はそのまま受け入れるしかない訳ですから、状況は難しいと思います。
今回の研究会では、情報を受け取る側は賢明な少数の市民であり、また情報を提供する側もかなりバランスの考えられた多数の『専門家達』であったわけですが、このようなある意味理想的な場においても、正しく伝わらなかった情報があったことは事実であり、民意を形成することに内在する根本的な問題を再確認いたしました。
私は『専門家』として参加したつもりでしたが、逆に多くのことを学ばせていただきました。医療の世界では今『インフォームドコンセント』の重要性が盛んに強調されておりますが、おそらく同様の問題を包含していると思います。今後、この点を自分なりにもう少し掘り下げてみようと思います。
最後になりましたが、これだけの難解で複雑な問題に真正面から取り組み、短時間に結論を導き出された市民の皆様の熱意と努力に心からの敬意を表します。
香川 知晶(山梨大学大学院教授、倫理学)
市民パネルによる「市民の提案」を読んで
まず、今回のイベントで得がたい経験をさせていただいたことを市民の皆様を始め、他の専門家や運営された事務局の方々に感謝させていただきます。二度にわたって直接参加することができ、設定された問題そのものについてだけではなく、対話や説明のあり方についても反省するきっかけを得ることができたと考えています。以下、簡単な感想を記させていただきます。
(1)「市民の提案」について
まとめられた「提案」は、脳死・臓器移植をめぐっていまだ解決されていない多くの問題が残されていることをよく捉えており、全体的に妥当なものだという印象をもちました。参加された市民の方がいわばゼロからスタートして、短期間で「提案」をまとめるに至ったわけで、代表の若松さんの言われる「実験」は一定の成果を収めたと言えると思います。
従来から、このテーマについては、脳死と呼ばれる状態は人の死なのか(脳死と人の死)、その状態を医学的に間違いなく判定できるのか(判定基準)、そして、脳死状態の人の扱い(脳死と臓器移植など)の三つが論点としてあげられ、さまざまな議論が行われてきました。そうした議論は特に日本で活発であったと言えるでしょう。その結果、現在では、いつまでも議論している場合ではない、日本だけが取り残されてはならないという声がこれまでになく強くなってきているように思います。確かに、そうした声が出てくる理由は分からないわけではないですし、救命という目標を掲げる声は強い正当性をもつようにさえ見えます。しかし、問題について少し情報を集めて考えてみると、さんざん議論されたとはいっても、従来からの三つの論点のどれも満足な解決が与えられてはいないことに気づかざるをえません。もちろん、社会的なシステムが機能するためには前提となる問題のすべてが解決されていなければならないというものではないでしょう。むしろ、解答が出せなくとも、一定の方向を目指してシステムが働いていく方が普通かもしれません。ただ、問題が残っているなかで、どうしたらよいのか考え続けていくことは可能ですし、必要なことでもあると思います。その意味で、「提案」が「市民も積極的に関心を持って情報を活かす努力をすべきである」としているのは、至当だと考えます。
ただし、細かな点については、幾つか気になるところもあります。たとえば、冒頭の「脳死」の部分で言えば、1Bの1や2です。1の「科学的な死の判断にはグレーゾーンがある」という点については、医学的に定義される或る状態を死とするかどうかは客観的事実として決まっているというよりも、最終的には価値判断に基づかざるを得ないので、1Aにあるように生の状態とも死の状態とも断定できないということなのではないでしょうか。また、2の脳死と臓器移植を区別して考えるべきかどうかという点は、二度のディスカッションでも問題として気にされている市民の方が多かった印象があります。しかし、私には、どうしてこの点が問題になるのか、実はよく理解できませんでした。両者は概念的には明らかに違います。ただし、歴史的に見れば、脳死に注目が集まったのは臓器移植との関係が大きかったわけです。区別するかしないかはどのレベルで議論するかという問題で、区別できるかどうかということは問題にはならないのではないでしょうか。実際には明確に区別するのが難しい場合もありますが、まずは事実的判断と価値的判断、概念と事実を区別してさらに論点を整理することが必要だろうと思います。
(2)イベント参加の感想
ここでは、今回のイベントに参加し、脳死・臓器移植というテーマについて、最も強く印象に残ったことを書いておきます。それは、脳死状態を最もよく知っていらっしゃる脳神経外科の専門家の方々が、臓器移植を否定はしないものの、その前提として脳死状態の人を死んでしまったと言い切ることには強い躊躇を表明されていたことです。その躊躇を消し去る納得できる説明は、脳死を人の死とする移植医や法学者の方々からは出されなかったと思います。一般的に言って、一番よく知っている専門家の言をそれ以外のよく知らない者が否定するというのは、よほど説得的な理由があるのでない限り、かなり奇妙な事態です。他の人の救命という崇高な理由が持ち出されても、そもそもの問題に対する疑問が晴らされるわけではありません。そうした理由は崇高かもしれませんが、脳死は人の死かという問題に引っかかってしまった者からすると、問題に蓋をして、すっとばそうとするものにしか見えません。ある移植医の方がこのままでは日本の心臓病患者は確実に毎年6000人亡くなると繰り返し言われていましたが、居心地の悪さがつのるだけでした。ともかく、今回参加させていただき、脳死を人の死として断定することには無理があるという思いを再確認することになりました。
粥川 準二(ジャーナリスト)
「市民が考える脳死・臓器移植」について
(1)市民パネルがまとめた「市民の提案」についての感想・意見
まずは市民パネルおよび事務局のみなさま、ご苦労さまでした。みなさまのご苦労は十分に理解しているつもりなのですが、正直な感想を述べたいと思います。
全体として、国の審議会などがまとめる答申や報告書ぐらいの厚さのものを想像していたのですが、届いたものを読んで、文章量(情報量)が少なすぎるというのが僕の正直な印象です。少し残念に思いました。
そのためもあって、1つひとつの提案を読んでみても、あまりに常識的なことが多く、それほど知識のない個人が1人で書いてもあまり変わらないのではないのか、と思いました。
たとえば、脳死判定について、市民パネルは「市民を含む第3者機関が脳死判定基準の妥当性を科学的に検証する必要がある」と提案していますが、ということは、現行の脳死判定基準は科学的に妥当ではない、あるいは、科学的な検証を受けていない、と認識しているのでしょうか。だとしたら、現行の脳死判定基準のどの条文について、専門家の意見がどのように分かれたのかを書くべきではないでしょうか。
また、意思表示について、市民パネルは「本人の意思表示は、脳死を十分に理解した個人が行なうべきである」と提案していますが、ということは、現状はそのようには行なわれていない、と認識しているのでしょうか。あるいは、家族のみの同意では脳死判定や臓器摘出は認められない、ということでしょうか。だとしたら、そのように具体的に書くべきだと思います。
一方、脳死について、市民パネルは「科学的判断以外の要素(文化、社会、倫理)を考えるべきである」と提案していますが、僕はこれには諸手を挙げて賛成したいと思います。
(2)「市民が考える脳死・臓器移植」というイベントについての感想・意見
僕が参加した日についてしかいえないのですが、議論のほとんどは医学、法律に関するものがほとんどで、それこそ、市民パネルが提案しているような「科学的判断以外の要素(文化、社会、倫理)」を考えるための議論が少なすぎたと思います。事務局のご苦労は十分に理解しているつもりなのですが、そうした議論が必要になるであろうことは予測できたはずなので、議題やパネラーの設定等、もう少し工夫できなかったのだろうか、と思います。
ただ、回数を重ねるごとにいろいろと問題点も見えてくるでしょうから、それに応じて少しずつ改善・工夫されるだろうと思いますし、また、そのように望みます。
一方、このイベントの試み自体については、僕は少々複雑な感想を抱いております。「市民参加研究会」という研究者集団の目的は、「意思決定の方法論の研究」であると僕は理解しています。それは十分に意義のあるものだと思う一方で、これほどセンシティブな問題を、研究の題材として用いることに、不安や違和感を感じないでもありません。ただ、この件についても、研究者(=市民参加研究会)の自己満足的な知的ゲームで終わらせないための工夫や心構えは可能だと思いますし、また、僕がこれまで見てきた専門家どうしの議論のなかには、いろいろな意味で不毛だと感じたものも少なくないのですが、今回のイベントは、大きな意義があったのではないかと思います。
小松 美彦(東京海洋大学教授、科学史)
公開シンポジウムに向けて
本イベントに係わられたすべての皆様、大変御苦労さまでした。誠に残念ながら、同時間帯に行われる先約のシンポジウムに基調講演者として参加するため、欠席せざるをえません。かくて、以下、文書によって卑見を申し上げます。
(1)「市民の提案」についての感想・意見
(ウ)積極的に評価する点
(a)「市民の提案」における「2B―1」、すなわち、脳死判定基準の科学的妥当性を検証する第三者機関の設置は重要だと考える。ただし、この種の第三者機関が従来は純粋な意味で第三者機関になってこなかったことに最大限留意する必要がある。その独立性をどう保証するかが問われる。また、何のための第三者機関の設置かにも注意を要する。つまり、「1A―1」にあるように、「市民の提案」では脳死は生の状態か死の状態か結論がついていないのだから、脳死判定基準の妥当性の検討の意味が空虚になりかねない。もし、脳死が生の状態なら、脳死判定基準は臓器摘出とは無関係に、例えば患者の治療方針を判断するための材料として位置付くはずである。対して脳死が死の状態なら、従来の脳死を死とする論理は全身の有機的統合性の消失を人の死とすることを大前提としているのだから、脳死判定基準は有機的統合性の消失を検査しうるものでなければならないことになる(因みに現在の判定基準にはそうした項目はない)。かくして、「2B―1」の提言は評価しうるものの、言葉足らずのため、かような細部にまで目が届いているか疑問も残った。
(b)「5B1-4」の情報公開をめぐる提言は非常に高く評価できる。情報提供はインフォームド・コンセントの場で個人的な関係のもとだけではなく、日常的に社会一般に対しても広くなされ、社会的な検証の洗礼を受けるべきである。したがって、脳死・臓器移植に関するこうした情報公開は、その情報を半ば独占してきた厚生労働省・日本臓器移植ネットワーク・日本移植学会が、行う責務を負っているはずである。それを追及・要請しないマスメディアにも責任がある。しかしながら、脳死・臓器移植のうちの脳死判定に関しては、そもそも情報公開しなければならない死の判定だというところに根本問題がある。すなわち、従来の二徴候死(心停止・呼吸停止)や三徴候死(二兆候+瞳孔散大固定)は臨床現場で素人にもわかる死の基準であるのに対して、脳死は専門家にしかわからないところに元凶がある、と考える。
(エ)残念な点
(a)「1A-1」の脳死が死の状態か生の状態か専門家の間で意見が分かれる、という結論的な認識は最も残念であった。これは各自が当該催事に参加する以前から知識として有していたはずの言わずもがなのことであろう。私はそのことを前提として、従来の脳死を死とする公式論理が成立しないことを話した。すなわち、「(1)全身の有機的統合性の崩壊=死、(2)有機的統合性の一局中枢=脳、したがって、(3)脳死=死」という唯一の公式論理が成り立たないことをである。例えば、慢性脳死者が存在し成長すること自体が全身の有機的統合性を備えている証であり、この者は脳死状態に陥っても有機的統合性を維持していることになる。このことは、脳が有機的統合性の一局的な中枢ではないことを示している。したがって、脳死を死とする上の公式論理が成立しない以上、脳死は人の死とはいえないのだ。換言するなら、仮に十全な脳死判定がなされたとしても、それは脳死状態が確定したことに他ならず、脳死状態をもって死とすることとは次元を異にしている。講演時には時間の制約があって足早に説明したが、公式論理の不成立をめぐって、慢性脳死者の存在という以外の理由も複数示したはずである。
(b)「4A」で「脳死臓器移植以外の医療は当面の間期待できない」という認識には「移植医の認識として」という但し書きがついているものの、そうした移植医の認識自体を市民パネルがどう検証したのか不明である。少なくとも私が出席した第1日目では、移植医が述べたことは、移植の実施件数、生存率、脳死・臓器移植と生体移植の比較などであり、これらは脳死・臓器移植が「患者にとって」意義のある医療になっている、すなわち脳死・臓器移植にプラスの延命効果がある、ということの根拠になっていない。わかりやすくいえば、脳死者の臓器を移植しても患者の生存率は○○だったとなど述べているにすぎない、とも解釈できるのである。したがって、私は移植の延命効果をめぐる米国論文を紹介しつつ、統計調査をすべきことを提唱した。あえて確認すると、私自身は移植に延命効果がないともあるとも明言していない。脳死・臓器移植推進論者の言明は、科学的根拠に基づかない印象でしかない、ということを指摘しているのである。Evidence Based Medicine(根拠に基づいた医療)ということが医療者・医療行政者側から力説される今日にあって、臓器移植という先端医療自体がEvidence Based Medicineにはなっていないのである。
(c)「4B-1」で推進すべき臓器移植の代替医療として「再生医療」が挙がっているが、その可能性や問題性をどこまで検討したか不明である。脳死・臓器移植には少なくとも多面的な見解があることや、十全な医療とは呼べないことは「市民パネルの提案」の認識となっている。とすると、「再生医療」にも同種の問題が存在する可能性が想像されてもよいのではないか。再生医療にはさまざまな種類が存在するが、ここでは受精卵にクローン技術を施して、ES細胞を作成・利用する方法の問題点のみを列挙しておく。(1)ES細胞を作成するためには、受精卵(人間そのもの、もしくは人間の萌芽)を破壊せねばならず、したがって再生医療のために受精卵を作成することは、あらかじめ中絶することを決めた上で妊娠することに対応する。(2)再生医療は近い将来実現する「夢の医療」として喧伝されがちだが、臓器移植の代替医療となるためには数百年を要するという説もあり、実現までの時間は不明である。約10年前に「夢の医療」として同じく喧伝された「遺伝子治療」がいつの間にか表舞台からなりを潜めたことを想起していただきたい。(3)再生医療は人体を用いて莫大な企業利益をもたらす。「市民パネルの提案」では臓器売買はいけないことではなかったのか。(4)いったい誰が受精卵、未受精卵、精子を提供するのか。特に女性にはその採取の過程で多大な肉体的・精神的負担がかかる。
(2)「市民が考える脳死・臓器移植」というイベントに参加しての感想・意見
真摯なイベントであったことに拍手を送りたい。ただし、イベント空間の外には「臓器移植法」改定と、改定を前にして脳死・臓器摘出が加速度的に行われている(本年2月・3月で5件)という現実があることに心していただきたい。私個人としては、指名に預かり光栄に思うとともに、市民パネルに何が伝わり何が伝わりにくいかという点で勉強になった、最大の不満は、第1回目では専門パネルとしての自由発言ができないルールになっていたため、他の専門パネルが事実と異なることを述べた際などに正(質)し、議論することができないことであった。
市民パネルの皆様には、今回のイベントを機に、脳死・臓器移植はもとよりその周辺領域の問題をも熟考し続けていただくことを心底念願する。
3. 説明者の感想・意見
空閑 厚樹(立教大学講師、医療倫理・医療問題)
「対話」は成立したか −試みの歩みを展開させるための提案−
本企画に「説明者」の立場で参加した感想を報告する。キーワードは「対話」である。
「説明者」は、本企画の立案・運営にほとんど関わっていない。しかし、事前の打ち合わせ機会を通して、私自身は本企画の趣旨を「「市民」が互いの対話と専門家との対話を通して脳死・臓器移植の問題に関して提言すること」と理解していた。
対話の意義は、異なる立場にある者が対話を通してお互いの相違点と共通点を確認し、共通点を契機として相違点から新たな共通点をつくりだす点にあると私は考えている。この理解にたつならば、今回の企画において対話がなにをうんだかが私の関心である。以下、「市民間での対話」と「市民と専門家との対話」に分けて考えてみたい。
「市民間での対話」の点では、企画に協力してくださった参加者がテーマについて共通の問題意識をもっていた点が対話の機会を狭めているのではないかと感じた。極端な私見を述べれば、むしろ今回のテーマには積極的な関心を有しない非専門家としての「市民」に参加を呼びかけた方が創造的な対話の場を設けることができたのではないかと考えた。なぜなら、議論のテーマについて一定の知識と関心をもつ参加者が対話を繰り返した場合、結論として提出される提案は想定しうる穏当なものであると予想されるからである。「脳死・臓器移植」問題は日本において長期間議論が重ねられてきたのにもかかわらず、未だ現実に社会で共有しうる見解が成立していない問題である。そこで、今回の企画の趣旨を挑戦的にとらえれば、これまでの議論の枠を超えた提言をつくりだすことにあったとも言えるのではないだろうか。そして、このような試みをすれば当然おこりうるであろう議論そのものが成立しないという事態をいかに回避して提言作成まで対話の場を維持するのかという挑戦から、創造的な提言がうまれてくるのではないかと考えた。
「専門家との対話」の点では、「専門家」が対話から何を学んだのかという点も本企画の中心的なテーマとする必要があるのではないかと感じた。専門家と非専門家とでは、多くの場合異なる価値観や考え方をもちつつ対話に臨むことになる。知識の面では専門家が情報の提供者であり、その知識をどのように提言作成に活かしたかという面では非専門家が情報の送り手である。専門家の情報発信が専門家の意図を離れて非専門家の意見形成に影響を与えうることは、専門家自身が自らの価値観や考え方を相対化する機会となりうるのではないだろうか。
対話が当事者双方の既存の前提を相対化する機会であると考えるならば、非専門家が専門的知識を得て提言を作成するだけではなく、専門家が対話を通して得た知見をも検討の対象とする必要があると感じられた。
本企画は科学技術への市民参加型手法開発のための試みの一つである。私はこのような試みの蓄積についての知識を持たないが、その展開の必要性は感じている。そこで最後に今回の試みを展開させていくための方向性を提案してみたい。それは、個々のテーマに関する提案だけではなく、その個別具体的なテーマの根底にある人間観や社会観についての議論を深めていくことである。
個別テーマについては、専門家は非専門家よりも知識を有している。しかし、人間存在をどのように理解しているのかという人間観に関わる問題や、どのような社会を目指しているのかという社会観に関する問題は、専門知識の有無に関係なく対話が可能な領域であろう。
科学技術の進展が社会や日常生活に根本的な影響を与える可能性がある以上、どのような影響が予想されるのかという客観的な情報を共有した上で、その影響をどのように評価するのかという点についての対話と、その対話に基づく人間観と社会観の創造が必要とされているのではないだろうか。
中山 茂樹(京都産業大学助教授、憲法学)
「市民が考える脳死・臓器移植」について
はじめに
筆者は、「市民が考える脳死・臓器移植」に、専門家の選出・依頼および事前資料作成の任にあたるワーキンググループの一員として、また、イベント第1日目および第4日目に説明者の一人として参加した。この文章は若松氏にイベントの評価を依頼されて記すものである。しかし、筆者はこのイベントの中核をなすと思われる第2日目・第3日目の様子に接していない。したがって、評価を適切に行えるものではないだろう。断片的にいくつかの点について感想めいたこと述べるのみであることをあらかじめお断りしておきたい。
1 手続的側面について
このイベントの主として手続的側面について気づいたのは次のような点である。
(1) 「専門家」(この語は、このイベントにおいて、やや特殊な意味を持たされているようである)を選び依頼することと、市民パネルに専門家の話を聞く前に基礎知識を提供すること(事前資料および説明者の説明)は、同じ一つのワーキンググループ(若松氏を含めて5名)によって行われた。
このワーキンググループ自体は、基本的に、林真理氏の判断と個人的ネットワークによって構成されたという印象をもっている。(なお、専門家団の構成や提供した基礎知識の内容が適切であったがどうかは、このWGの一員である筆者としては批判を待つしかない。ただ、市民パネルに不当に偏った情報を提供することはなかったと考えている。)
(2) 市民パネルは、ホームページやポスターにより募集された。新聞に募集についての記事も掲載された。市民パネルは、土曜日4日間を拘束されることを許した、自ら参加を志願した人たちで構成されている。
参加した市民については、総じて知的水準が高く、冷静な議論が可能な人たちであったと感じた。
(3) 市民パネルのグループ討論および全体会におけるファシリテーターの役割は大きい。市民各人の意見がパネルとしての「提案」へと集約される過程で、いわゆる「筋のよい/悪い」意見の取捨がファシリテーターを中心に行われた感がある。
また、討論において市民の間で意見が分かれる点は多数決で決することとされたが、その際、何が多数決の対象であるのかについての判断はファシリテーターにゆだねられた。
(4) 「市民の提案」は「1.脳死」〜「6.その他」の項目に分かれているが、このような項目分けは、第4日目昼休みに事務局が午前の議論を整理して1〜6の項目を分け、午後の日程冒頭に市民パネルに提示し、市民パネルがこれを認めたことが基になっている。
また、グループ討論では、市民とファシリテーターのほか、書記の任にあたっている方がどのように議論を整理するかについて発言を行うこともあった。
(5) イベント各日の現場は、あらかじめ募集された傍聴者や報道関係者に公開された。しかし、イベント終了後1か月以上が経過した4月10日現在にいたっても、「市民の提案」等はホームページ上に公開されていない。「提案」のほかに、市民パネルの議論の過程がどこまで公開されるのかは不明である。
2 市民の提案について
「市民の提案」の主として実体的内容について気づいたのは次のような点である。
(1) 市民パネルには、「脳死・臓器移植に関して『いま社会として何をどう考えるべきか』について提案」(「市民パネルのためのマニュアル」より)することが、主催者によって求められていた。「提案」においては、脳死判定基準の妥当性などが考えるべき論点であるとされた(逆にいうと、妥当かどうかの判断は示されていない)が、実体的な判断が示された点もかなり含まれている。
(2) 「提案」の各項目は、理解の部と提言の部に分かれている。これは主催者からの要望に基づくものである。
(3) 「『脳死』は『生』の状態とも『死』の状態とも断定できないということを理解した。」とされるが、趣旨は必ずしも明らかではない。この問題を議論したグループ討論においては、(A)脳死は生の状態か死の状態かのいずれかであるという見解と(B)脳死は生とも死ともいえない状態であるという見解が対立し、結局、多数決で(B)の見解によることとなり、このような表現となったと記憶している。しかし、全体会ではこの議論の過程が十分に引き継がれなかったように思われる。(これらの点、筆者の事実誤認である可能性もある。)そのため、(A)の前提をとりつつも今のところ「断定」できないという市民もこの表現に賛成した可能性がある。
なお、「脳死は人の死か」という問題に積極的に触れた専門家はいずれも基本的に(A)を前提に説明したように思われるので、(B)の見解が市民の「理解」として示されたことは興味深い。
(4) 「脳死下での臓器提供には、本人の意思表示、家族の同意が必要である。」という「理解」が示されているが、これは、(A)現行法の解釈として示されたのか、(B)現行法を離れた実質的政策判断(立法論)として示されたのか必ずしも明らかでない。
理解の部に示されたところを見ると(A)のようにも思われるが、そうだとすると提言の部に書かれたことは現行法を前提とするものということになろう。他方で、後段に「現行制度は」とわざわざ記されているところを見ると前段は現行法を前提としないようにも思われ、また法改正論議の重要論点に「提案」が見解を述べないとは考えにくいとすれば、(B)の理解もありうる。現に、3月6日の毎日新聞記事は(B)の理解に立った紹介をしている。もっとも、「子どもからの脳死臓器提供を認めるのであれば」という記述もあり、子どもの場合には本人の意思表示を前提にできないことを考えると、やはり(A)かもしれない。
その他の点も含め、時間の制約もあり、「提案」全体としての整合性の検討が不十分であったようにも思われる。
(5) 「提案」の趣旨は、おそらく、脳死臓器移植を本人の提供意思表示がある場合に容認し、意思表示のための情報流通を重視するものであろう(子どもからの脳死臓器移植を認めるのかについては、「提案」の見解は不明である)。
ただ、「脳死下での臓器摘出のためには本人の意思表示が必須である」という見解は、(現行法の解釈は別にして)専門家からは主張されなかったように思われる。市民パネルが、どうして「脳死の人は生きているから臓器摘出は許されない」という見解も「本人の意思が示されていないときには遺族の意思で摘出可能である」という見解も退けたのか(退けたかどうかはっきりしないのだが)、理由は「提案」からは見えてこない。
3 イベントの企画について
このイベントは、「ディープ・ダイアローグ」という「科学技術政策への市民参加手法」(「イベント趣旨」より)を試行する社会実験として行われている。残念ながら筆者は肝心のイベント第3日目のディープ・ダイアローグそのものを目撃できなかったので、具体的な手法について評価することはできない。より広く、企画について若干の点を述べておきたい。
この企画は、市民のパネルと複数の専門家との対話を重視するもののようである。そして、実験の仮説として、そのような対話を通じ市民の合議体が作成した「提案」に、政策、すなわち社会を構成する人々が拘束されるだけの根拠があるものとしての地位を認める、ということを置くようである。少なくとも、立法府なり、すでに強制的な政策決定権限を社会的に承認されている者に対し、この市民パネルの「提案」を尊重することを求めうるということを仮説として置くのであろう。そして、そのような仮説が成立しうるのかを検証しようという試みであると筆者は理解した。(若松氏が法改正に関して「市民の意思をくみ取って慎重に議論してほしい」と発言したとされる(毎日新聞3月6日)のは、この仮説にもとづくものだろう。筆者の印象では、若松氏と林氏の間には、仮説が成立しうる見込みについて若干の温度差があるようにも感じた。)
この仮説は、どのような提案が出てくるかあらかじめわからないのであるから、今回の「提案」の内容が実体的に正しいから採用せよ、という主張ではなく、ディープ・ダイアローグなる手続のあり方に着目した主張であるといえる。したがって、主催者がどのような点に着目してこの手続を設計し、他の考えうる手続と比較して主催者が想定する優位性(たとえば、実体的に「正しい」結論が出てくる蓋然性?)をどのように確保しようとしたのかとの関連で、現実にどのように手続が機能したのかが検証されるのだろう。
脳死臓器移植をめぐる政策のような国レベルの一般的な政策について「市民参加」を求めるとすると、その「市民」各人が位置する個別の関係性と、政策に必要な一般性(あるいは「公平な第三者」性)との緊張関係を否定できない。個別具体的事件の解決(たとえば、裁判)ではない一般的政策の定立(マクロな意思決定)の場面では、「ダイアローグ体」を一つに限る理由はないように思われるので、たとえば複数のダイアローグ体が出す提言が相互に矛盾することも考えられる。このような問題を克服して、この手続にどのような優位性を見出すのか(あるいは、見出せないのか)に注目したいところである。
なお、関連して、拙稿「ライフサイエンスと民主主義・ガバナンス・市民参加−辰井報告へのコメント」(菱山豊・研究代表『ライフサイエンスにおける倫理的・法的・社会的問題についての調査研究成果報告書』(2005,政策研究大学院大学)123頁以下)をご参照いただければありがたい。
おわりに
このイベントに関われたことは、「市民参加」というものについて筆者があらためて考える契機となった。若松氏、林氏、市民のみなさん、専門家のみなさんをはじめ、関係者各位に感謝申し上げる。
4. ファシリテーターの感想・意見
庄嶋 孝広(NPO法人東京ランポ)
『市民が考える脳死・臓器移植 −専門家との対話を通じて−』の技法的な感想
主催者が設計したプログラムに沿って、中立な立場でワークショップを進行する、ファシリテーターを務めました。日頃は、自治体の政策形成における市民参加を、技術的に支援する仕事をしています。そこで、以下では、技法的な側面について、感想を述べます。
●まず、このワークショップは、当日くじ引きによって決められた3つのグループによる「グループ討論」と市民パネル全員が一堂に会する「全体会」の繰り返しで進みました。グループ討論は、少人数であるため、市民パネルとしても発言しやすいのですが、全体会になると、発言が少なくなってしまうことが、初めのうちはありました。
そのため、専門家に対する「鍵となる質問(KQ)」を決める2日目最後の全体会では、よく発言する特定の人の意見ばかりが聞かれました。しかも、KQの長さや盛り込める内容の数を柔軟にしていたことも問題でした。つまり、コップの「容量」が決まっていなければ、いくらでも「水」を注ぎ足せてしまいます。他人の意見をわざわざ批判してまで、対立したい人はいないのですから、ある人の意見に積極的に賛成はしないけど、「容量」があるのなら入れてあげてもいいのでは、というような雰囲気で、1人が言っているに過ぎない意見が、全体の結論である「鍵となる質問(KQ)」に入りそうになる、ということが起こってしまいました。
そこで、4日目の「市民の提案」を決める全体会では、ある人の意見について、積極的に賛同の意思を示す人が2人以上出ない場合は、その意見は検討の対象としない、というルールを設けて臨みました。その結果、市民パネル内で一定の支持を得られている意見に絞って検討することができ、限られた時間のなかで合意形成することに役立ちました。
議論(対話)を促し、合意を形成するには、結論の「容量」「枠」が決まっていれば十分です。限られた「容量」「枠」に自分の意見を入れ込むために、自ずと議論が勃発するからです。もし、今回のように、「容量」「枠」が柔軟である場合には、提起された意見が一定の支持を得ない限りは、結論に盛り込む候補になる資格がないというような、「足切りルール」を設けておく必要があるでしょう。
●次に、このワークショップの特徴は、市民パネルが自分の意見を付箋(ポストイット)に書き出すことが多かったことです。また、グループ討論のテーマも、付箋をどう分類するかが占める割合が大きくなりました。つまり、「脳死・臓器移植について自分はこう考える」という「議論」が、市民パネル同士では最後まで行われることなく、各自が表明した意見を分類して、専門家への「鍵となる質問(KQ)」や「市民の提案」を構築していくという「作業」が、主体となってしまったように思われます。
そのため、3日目に、専門家が各グループのテーブルを順次訪ねて、市民パネルと対話をするという、このワークショップのハイライトでも、各自が各様に持っている質問や意見を、個々別々にぶつけることになってしまいました。専門家からも、もっと市民同士で議論した結果を聞いて、意見を述べたかったというような感想が聞かれました。
「脳死・臓器移植の是非」も含めた議論を市民パネル同士がすれば、自分の当初の考えを、他の市民パネルの考えに照らして深めることができ、他者との意見の相違が契機となって、「いま社会として考えるべきこと」もより見えてきたに違いありません。そういった場がなかったために、ワークショップの前後で全く主張していることが変わらず、終始ずっと「反対」という人も見受けられたように思います。
●専門家への「鍵となる質問(KQ)」にも入っていましたし、3日目の専門家との対話のなかでも大きな話題の1つになったのが、「社会的合意」の条件についてでした。この問いに対し、ある専門家は、「経験がないことを判断するときには、専門家を集めて討論し、決めていくしかない」ときっぱりと言い切っていました。市民が専門家と対話して自ら提言していく、今回のワークショップとは正反対の考え方ですが、1つの面白い考え方です。
社会的合意を形成していくうえで大切なのは、どんな情報のもとに、誰が判断するのか、ということです。「誰が」という点は、形式的には、内閣や国会、首長や地方議会といった政治指導者ということになりますが、実質的には、行政であったり、専門家の委員会であったり、市民参加の会議であったりしており、現在は流動化の時期と言ってよいでしょう。
むしろ、もっと大切なのは、「情報」という視点であり、あることを判断するために必要な情報が集められているのかです。従来であれば、行政や専門家がより多くの情報を持っているということで、判断する主体(「誰が」)をも担ってきたわけですが、その情報は、十分な学習をしていない市民が思いつきで答えた意識調査のようなものであるか、当事者になった市民についてのケース・スタディ(事例研究)といった、両極端のものではなかったでしょうか。
今回のワークショップは、普通の市民が、様々な立場の専門家や当事者(移植経験者)から情報提供を受けたうえで、どう考えるのかという意味で、これまでにない新たな「情報」を生み出しています。判断する立場に市民がなるかは別として、政治指導者にせよ、行政にせよ、専門家にせよ、今後は、内容を理解した普通の市民の意見という「情報」も踏まえて、社会的合意を形成していく必要があるように思われます。
●もっとも、いま「普通の市民」と言いましたが、新聞での募集記事などを見て、ワークショップに参加しようと思い立った市民は、果たして「普通」なのかというのはあります。公募ではなく、陪審員制度のような無作為抽出が必要というのは、よく言われることではありますが、運営コストをどう負担するのかといった壁に当たって、日本では当面実現の見通しはなさそうです。いまのところ、現に可能な市民参加の方法は、やはり公募であり、その特徴を理解したうえで活用することが、現実的な対応となるでしょう。
深田 祐子(NPO法人東京ランポ)
市民が考える脳死・臓器移植 〜専門家との対話を通じて〜 感想
今回の一連のイベントでワークショップの新しい手法「ディープダイアローグ」が実施されました。この新しい手法の初めての実践、いわば試行プロジェクトに係わることができたことを非常にうれしく思います。また、今回参加された皆様は非常に意識・意欲の高い方たちばかりで、4日間を通して実に熱心な質問・議論が展開されただけでなく、個人的に本を読んだり情報収集をしたりと事前学習や独自の勉強をされてきている方も多く、自分の知識が追いつかないことにより至らなかった点やあせりを感じる場面もありましたが、皆様と非常に楽しく有意義な時間を過ごさせていただきました。
さて、今回試行された手法としての「ディープダイアローグ」の一番の目的はいかに参加者である市民が専門家と「対話」をするかということだったかと思います。これまでもワークショップの経験は何度かありますが、私の経験の中で「専門家」が登場するのは、ワークショップの「1参加者」として個人的に参加しているか、一種の勉強会のような形で専門的な話を聞くために「講師」として招かれているかどちらかでした。前者の場合立場は他の参加者と対等ではありますが、特に専門的な見地から市民が考え、深めていくための情報提供とは異なりますし、場合によっては個人的に持っている専門的な用語や情報を使って一人で議論をリードしようとしてしまったり、逆に議論にはあまり参加せず、ひどく言えば「しょせん素人の議論」といった感じで傍観者に近くなってしまったり、他の参加者から「浮いて」しまうことも多くあります。後者は先に講義をしてもらって最後に質疑応答の時間を設ける、という程度であって、市民が十分に納得するだけの情報を得、全員が考えを深めるという段階には至りません。
今回はそのどちらとも違い、4日間を通して非常にたくさんの市民側からの質問・対話の機会が設けられていました。しかもそれは1日目の「基礎知識を学ぶ」部分を別として、専門家からのお話は常に参加者である市民パネルからの質問に応えるものであったために、イベント全体を通して、情報・話の一方通行が防がれていると同時に、参加者は常に自分たちが主体であること、お客様ではないことという意識が喚起されており、より活発で生き生きとした質問・議論になっていたのではないかと思います。また、これらの質問についてはあくまでも「市民パネル」として質問をしてください、あるいは質問を考えてください、といったことを毎回繰り返し訴えておりました。そのためか、ともすると起こりがちな質問の主旨が全体から若干離れた個人的な興味・関心ごとにシフトするといったことも少なく、逆に一人の質問に対して周りの人も「それは自分も知りたい」と大きくうなずくような場面も多く見られました。それに加えて(1)4日間通しての目標(2)それぞれの日の作業イメージ(3)それがどう流れ、次回以降につながっていくのかのイメージの説明も毎回丁寧に行うこととしており、こういった仕掛けがいろいろ重なることで、参加者に専門家の話をただ漠然と聴いているだけではなく、これから先自分たちが行う「提案づくり」と、そのために必要な「質問づくり」を意識させ、自分たちが市民パネルとして何を知りたいのか、活発な質問や発言につながり、最終的に質の高い提案・質問づくりにつながったのではないかと思っています。これらの点は今後の私にも非常に勉強になるものでした。
さらに今回のように非常にたくさんの専門家が協力してくれることもとても珍しいことだと思います。通常あれだけ多数の専門家を一堂に揃えて、対話できる機会はめったにありません。それによって今回はかなり多角的な視野でテーマを捕らえることもできたと思いますし、また、専門家同士も同じ質問・投げかけに対する答えを異なる立場・領域・視点からお互いの回答を聞いたり、意見を述べ合うシーンも見られました。「こういった立場の人からの情報が不足している」「今度はこういった立場の人からの話も聞いてみたい」といった声も参加した市民パネルの側から指摘されています。今回の私の立場はファシリテーターであり、若干主催者とは立場が異なりますが、こういった積極的な姿勢や声が聞かれたことは非常にうれしく、ファシリテーターとしてのやりがいも感じました。
もちろんよいことばかりだったわけではなく、個人的に反省しなければならないと思った点もあります。今回の目標である専門家との「対話」を実現するために大切なことは、あくまでも情報・意見の「やり取り」があるということだと思います。このハイライトが3日目の午後のグループ討論であったわけですが、質問に対する回答から話を「やり取り」にまで膨らませることは非常に困難であると感じました。ひとつの質問から続けて行われる市民パネルからの質問・発言が、回答の語句や言い回しに対する補足や確認を求めるものだけだったり、一通り質問−回答を順番に得ていくというスタイルだけでは、やはり質問−回答のワンセットが羅列されていくという域を出ず、かといって特定の人だけが発言している状況は避けなければなりません。ファシリテーターはあくまでも議論の内容には口を挟まず、むしろ議論が円滑に行われるような司会進行と発言者が偏らないような指名・割り振り・投げかけといったものがその大きな役割で、いわば議論の潤滑油になればよいと思っていますが、この役割の中で話を「やり取り」にまでうまく発展させる仕掛けを効果的に行うこと、ファシリテーターとして自分が十分な役割を果たせたのかと言われると至らぬ点の方が多かったように思います。
もう1点、今回のイベントでちょっとおしかったと感じたのが、最終日の午前中のグループ討論・作業と午後へのつながりです。参加者の意思・意欲は当初から非常に高い人が多く、またそれまでの3日間の経験もあってか、事前に提案を考えてきてくれている人がたくさんいました。そのため、グループ討論の最初に個人で「分かったこと」「〜すべきであること」のポストイットを記入してもらう段階で、非常にたくさんのポストイットが提出されました。これらをグループ討論の中でグルーピングしたり、1段階上の合意事項として違う色のポストイットを使って一応のまとめを行ったのですが、午後に向けて事務局がもう一度3グループあわせてグルーピングした時に、大くくりとしたポストイットの色の違いもあまり際立っていなかった観もあります。午前中に議論したカードについて他のグループで出された意見も含め、午後の議論で一部ダブって行われたものもあり、時間的な猶予も含めてこの点はもう少し工夫する必要があったのかという気がします。
今回のテーマである「脳死・臓器移植」というのは私が普段仕事にしている専門分野とは異なり、私自身もまったくの素人といってよい存在でした。そのため知識や情報が不足している点も多々あり、専門家からのお話の記録を取りながら内容を理解しようとすることは困難であり、メモとして不十分、あるいは不正確なものも多かったかもしれません。このように反省材料は後を絶ちません。
今回の議論の中身が他の仕事にダイレクトにはつながるものではないかもしれませんが、ワークショップのひとつの手法として、また、ファシリテーターとして学ぶものは数多くありました。これらをひとつの糧として、今後他の場面で生かしていけたらと思います。
ありがとうございました。
5. 事務局スタッフの感想・意見
草深 美奈子(事務局)
ワークショップに事務局スタッフとして参加する機会を頂いた。以下、総合的な評価ではなく、あくまで私見として、ワークショップの運営に関する感想を記録する。手法設計に関する議論を正確には理解できていないため、手法の意図から外れた見解を含む可能性があること前提とする。
1)市民パネルとして機能していたか
コンセンサス会議や類似の手法に関し、耳学問では、市民パネルが非常に効率よく時間内に議論し、意見をまとめると聞いていた。今回のワークショップでも、確かに市民パネルは意欲的であり、アウトプットを出すことを強く意識していることが感じられた。しかし、結果的には、鍵となる質問は、市民パネルの議論が時間内に納まらず、市民パネルの意見を慎重に取りまとめるという前提で、事務局によって作成された。また、最終提案を取りまとめるためのグループ討論では、事務局が積極的に文章を作り、市民パネルの了承を得るという形式で進行された。事務局がこれらの文書作成の作業に関わってはいても、内容に関しては、市民パネルの意見を核にすることが、常に努力されていることが感じられた。しかし、コンセンサス会議について聞いていたことから考えると、市民パネル主導の印象は薄く感じた。
今回の手法は、もともとコンセンサス会議とは違うものであるということが強調されてきた。手法設計の議論の中では、専門家と市民の対話の時間を増やすことにより、市民パネルの合意形成の時間を削ることもやむをえないという議論があった。今回、事務局が積極的に提案文書の作成に関与することを手法に組み入れたのは、ある程度、事務局主導の印象が生じることを覚悟の上での設計とも考えうる。コンセンサス会議という手法の「売り」と感じていた、市民の言葉で鍵となる質問や最終提案を作るということが、実現できなかった分、今回の手法の核とされているように、「議論は深まった」のだろうか。
2)コンセンサス会議との相違点は手法としてどのような効果があったのか
今回のイベントは、新しい参加型手法として位置づけられていたが、コンセンサス会議をベースにして設計されていた。コンセンサス会議との相違は、今回の手法では、初日にテーマに関して基礎知識を提供した解説者とは別に、毎回4名程の説明者が参加していたこと、そして、小人数で市民パネル(5人)と専門家(3人)が議論する時間が設けられたことにあるように思う。説明者の関与や、小グループでの専門家との議論は、手法としてどのような効果があったのか。
説明者の関与は、市民パネルの議論において、事実確認のために時間を無駄に費やすことを避けるためと説明されたと記憶している。しかし、市民パネルが説明者に説明を求めた機会は少なく、説明者の関与による議論の効率性への貢献は限られている。他方、説明者が市民パネルの議論内容に影響を与えるという懸念は回避されていたと思う。事務局としては、テーマに精通している人が、事務局と共に作業に加わり、経過を観察していたことは心強かった。しかし、これは「説明者」本来の機能ではない。また、説明者を事務局から独立した立場として位置づけるなら、事務局作業に説明者が関わることに対する懸念も在り得るだろう。
市民パネルと専門家がグループ単位(5人対3人)で議論したことは、全体会で市民パネル15人と専門家9人で議論するよりも、より緊密なコミュニケーションが取れることを狙ったものだと理解している。小グループの場では、全体会よりも市民パネルは質問しやすかったかもしれない。専門家同士のやり取りになる場面もしばしばあったが、全体会で議論をするよりは、専門家のやり取りに費やす時間を制限できたかもしれない。考えうるデメリットは、専門家は3グループを順に回ったため、3グループで同じ質問に繰り返し答えていた可能性がある。全体会で、一回で答えたほうが、時間の効率は良い。一方、グループ毎に質問が異なれば、グループによって専門家から得た情報内容が異なり、市民パネル間で違う知識を得たことになる。しかし、このことは特に問題ではないのかもしれない。グループ単位で議論したことの効果は、市民パネルと専門家による評価を中心に検討が必要だろう。
3)手法の細部で(1):議論のルールは妥当であったか
最終提案に盛り込む内容は、最終日の午前中に、グループ討論で議論され、昼休みに事務局がグループ討論の内容を整理し、事務局の整理に関して、午後の全体会で市民パネルが検討した。この際、事務局案に対し、市民パネル(発言者)が変更の提案を出しても、2名以上の支持がないと変更できないという「合意のルール」が適用された。これは、事務局案に対して明確な支持が示されていなくても、事務局案を覆したい場合のみ2名以上の支持を要求することになり、事務局案を市民パネルの意見に優先することになったのではないか。反対案を出す、或いは、反対案に対する支持を表明しない限り、事務局案を支持したと理解してよかったのか。グループ討論の結果を全体討論にかける際には、主役である市民パネル間の意見調整である為、合意のルールの適用は妥当だと思ったが、黒子であるべき事務局案に対して、同じルールを適用することに、疑問を感じた。市民パネルが主役とうたうのであれば、事務局案に対しても、市民パネル2名以上の明確な支持が必要だったのではないか。一方で、このルールに従えば、プロセスを煩雑にするだけで、結果としては同じところに至ったのかもしれない。しかし、事務局が発言者の意図と異なる分類に意見カードを振り分けていたことに対して、発言者が反対を表明しても、反対意見に対する支持を市民パネルが明確に示さない限り、事務局案が優先されたことに対する疑問が残った。
4)手法の細部で(2):記録のとり方・利用の仕方は適切だったか
三日目の専門家の回答や市民パネルとのやりとりは、市民パネルが考えるのを助けるためという目的で、ポストイットに記録され、当日掲示した他、4日目にタイプアップしたものを配付した。一方で、グループ討論に関しては、緊密なコミュニケーションを阻害しないように、録音しないという方針が採られていた。後から振り返って思うことではあるが、記録を当日掲示したり、4日目に配付したことは、録音を避けた趣旨と矛盾するのではないか。録音をしなかった為、掲示や配付した記録の正確性・客観性は担保できない。書記の理解や記録能力が記録内容に大きく影響する。参加していた専門家が、記録内容を気にかけ、チェックをしていたが、訂正の提案を受け付ける時間は無かった。一方、市民パネルには、参考資料としてあまり用いられていないように感じた。このため、記録を掲示したり配付したことが、市民パネルの議論に大きな影響を及ぼしたようには思えないが、専門家の名前が記載された記録が、誤った内容のまま、内部資料にとどまらず市民パネルに配付されてしまった可能性はおおいにある。
おわりに
研究会のメンバーに加えていただきながら、詳細な手法設計の議論に参加せず、手法の意図を理解しないまま、後追いで勝手な感想をあれこれ記したが、今回の試行実験では、いろいろと勉強させていただいた。運営マニュアルを読んでも問題意識を持てず、議論の場にいなければ、見えなかったことの方が多い。参加型の手法は、試行の繰り返しにより、精錬されていくものであるはずで、今回の経験が次につながっていくことと思う。
今回のような参加型手法の試みは、政策決定あるいは、社会的な議論を展開していく上での参照情報を提供するものだと理解している。今回、臓器移植法の改正に関する議論が展開している中で、あえて脳死・臓器移植をテーマとして取り上げた。積極的にプレス発表を実施し、社会的に周知されることも意識されてきた。市民パネルの出した提案が、脳死・臓器移植に関する社会的な議論の場で、参照情報として活用される(時には、意図に反した方法で)可能性は大いにある。この意味では、研究会で常に意識されてきたことではあるが、試行実験とはいえ、社会問題に対する介入であり、イベントを主催した側の責任は大きい。今回の結果は、参照情報としてどの程度有用なものだったのか、或いは、世論形成に対しどの程度影響力を持ちうるのか。
全日程に1日欠ける3日間ではあるが、市民パネルの議論を見守らせて頂いた経験から、少なくとも、素人が適当に議論して出した結果ではなく、限られた時間ではあるが、対立する見解を慎重に吟味して導いた結果であり、参照情報として活用するに値するものであると思う。しかし、イベントの場に居合わせなかった人間には、前述の細かな点などが目に付き、今回の手法の正当性が、必ずしも明解ではないかもしれない。また、新しい参加型手法であるとうたう以上、新手法としての効果を示す必要がある。今回は、コンセンサス会議より、もう一段階、「議論を深める」ことが目的とされていたが、その目的は達せられたのか。達成度は、どのように計るのか。今後、参加型手法として確立していくためには、参加者からの評価をふまえ、更なる精査が必要である。
後藤 潤平(事務局)
プロジェクトに加わっての感想
今日政策策定過程における市民参加型手法の開発は、かつての市民参加論を背景として「下」から求められているばかりではなく、「上」−−これまで政策策定に関与してきた政治エリートの側−−からも求められている。90年代に入り政権交代の可能性が人々に認識されたため、政権党の関連議員・官僚・特定分野の利益団体による閉鎖的な利益の刷り合わせによる政策策定は、彼ら自身にとってもリスクが高い。したがって政治エリートは政策策定に当たって潜在的な世論との刷り合わせを常に求めている。一方で、政策策定過程から排除されている野党や利益団体などのカウンターエリートもまた、潜在的な世論に対して現実を批判的に説明し説得する機会がほしいと考えている。
要するに起きているのは「潜在的な世論の支持の奪い合い」である。具体的な問題について、「こうしたい」という人々がいる。「こうしてほしくない」という人々もいる。また「よくわからない」という人々もいる。そこで「してもいいか」「してはいけないか」について、今まで「よくわからない」といって意見表明をしてこなかった人々の判断が求められている。もっとも、第三者で非当事者であるにもかかわらず、公的な問題について判断が求められている人々のためには、情報提供や討議のプロセスが公平で平等な手法開発が肝要である。
こうした認識のもとに、2004年6月の段階で、脳死臓器移植問題の特定課題について「検察(賛成派)と弁護士(反対派)が陪審員(市民参加者)の判断を取り合っているというイメージ」の手法をひとつの案として構想した。この構想は、「賛成派」の情報提供者と「反対派」の情報提供者が競い合うモデルであり、「市民が脳死臓器移植の何について考えるのか」については情報提供者との協議の下に事務局が予め制約したうえで、「市民がどのように判断するか」を問うものであった。要するに「市民に判断してほしいテーマを元々明確にしてしまおう」というものだが、逆に市民の考えを制限してしまう点が問題であった。
実際に行われたイベントに立ち会った限りでは、「その時市民が脳死臓器移植の何について考えるのか」については基本的に制約がなかった。「脳死臓器移植について少し考えてほしい」と言われてきた市民参加者は、「今脳死臓器移植の何について考えたいですか」と常に聞かれていたようなものであると観察された。確かに市民参加者は脳死臓器移植問題を取り巻く多様なテーマをその都度提出していた。「死とは何か」という問題に関心を寄せたり、「現実的な移植手続きの現状」について関心を寄せたりして、専門家の意見を尋ねていた。この点は極めて意義ある発見である。多様な課題を発見していく手法として、今回の手法は有意義となる可能性を秘めている。
もっとも全ての議論が順序良く積み重ねられ、生産的な議論が組み立てられていったかどうかという問題は難しい。市民参加者全体の判断というものを求めるには、「何について判断してほしいか」という最終テーマが必要であるという気がしてならない。
林 玲子(事務局)
イベント「市民が考える脳死・臓器移植−専門家との対話を通じて−」についての評価
第1日目(傍聴者として)
プログラム
- 基礎知識についての情報提供による市民の学習
- 事務局の作成した専門家への3つの質問(「脳死は人の死か」「脳死臓器移植の利点と問題点は何か」「現在の日本の状況をどう理解しているか、またどのようになるべきと考えるか」)に対する専門家からの回答と質疑応答
感想:3つの質問は適切だったと感じたが、どのような立場で回答しているのかによって異なっていたように思う。専門家の方たちももちろん、自分の考え方に合うように仕事をなさっているとは思うが、考え方と科学性が必ずしも一致するとは限らず、一致させようとすれば情報が偏る可能性を感じた。「専門家からの情報提供」ではなく、「専門家からの意見提供」とすべきだったのではないだろうか。上述の3つの質問に対する回答は、回答者の主観を交えずにいることは困難であり、「情報」というと、客観的な事実を告げられているように感じられた。しかし、市民の方々もそれを感じてその後の議論を進めていたようなので、今回のテーマの専門的職業に就いている方たちの意見というのは、確かに熟慮の末のものであろうから、非常に参考になると思った。
第2日目(傍聴者として)
プログラム
- 第1日目の専門家からの情報提供を受けて市民が意見・疑問などを付箋に記入
- 市民意見をテーマに分類し、専門家への「鍵となる質問」を作成
感想:専門家からの情報や意見の提供を受けた上での市民としての疑問が出ていたように感じた。公募後に事務局が選んだ、市民的意識を持っている方たちからなる市民パネルであるから、以前から考えている方たちなのだとは感じていたが、「法律で死を決められないのではないか」など、前回の提供を受けた上での意見や新たに感じたことなどが出されていたように思った。
帰路、市民パネルの方と話す機会があり、今回のイベントについての反映のされ方に対してや、前回の午後に行われた専門家からの提供で、やはり専門家とはいえ主観が入っていると感じたとのことを伺った。反映のされ方に対してはやはり社会実験としては疑問は免れないと感じつつも、議論の場による意識化の必要性を感じた。
第3日目(傍聴者として)
プログラム
- 全体会での専門家からの回答
- 「鍵となる質問」に対して専門家がグループを回って質疑応答
感想:市民パネルとしては非常に有意義な時間を過ごすことができただろうと感じた。普段の生活で専門家との一対一のような顔の見える議論の場を持つことは困難であろう。顔の見える専門家との対話は信頼関係の醸成にもつながると思った。一方、専門家は違うグループで同じ質問が出ていたりしたが、それぞれにきちんと答えていると感じた。このような機会は専門家にとっても市民の疑問を把握することができ、意義があったのではないだろうか。そういう点ではもう少し対話に時間を設けても良かったのではないかと思った。
第4日目(スタッフとして)
プログラム
- 専門家との対話による理解をグループで付箋に記入
- 全体で理解をテーマに分類し、今後何をするべきかの提案を作成
感想(または反省):スタッフとして特に後半、僅かながらお手伝いさせていただき、改めてファシリテーションの難しさを認識し、付箋を各自が自分の言葉で書くことの適切さを感じた。各自が書くとファシリテーターが「1枚に1つ」と言ってもたくさん書き込んでしまう一方、自分自身の言葉で表現することができ、そのことの方が参加者の参加意欲に対しても有効であろうし、重要であると感じた。
イベント全体に対する感想
プログラムに関しては、効率的な情報提供を行った上で、議論や意見交換のための時間をとり、その時間配分も適度にあった。
市民パネルにとっても専門家にとっても、あまりこのような機会は無く、しかし必要とされるべき場であると感じた。また、社会実験でありながらメディアからの取材や報道を入れることで、政策への直接の反映は難しいが、社会還元もされやすいようになっていたように思う。一市民としてまず問題意識を持つこと、これが大切なのだと改めて感じた。
山本 珠美(事務局)
新手法に対する評価
どのような項目についてどのように評価すべきかについては必ずしも事前に十分な検討がなされたわけではないため、以下、評価の具体的な中身ではなく評価することが求められる項目の列挙にとどまっている箇所があることをあらかじめお断りしておく。
<企画段階>
1.事務局と運営委員会との役割分担:研究プロジェクトのメンバーはそれぞれ本務を持ち、常に顔をあわせて仕事をしているわけではない。それゆえ、(コンセンサス会議にたとえて言えば)事務局というよりはむしろ運営委員会的な役割を果たすことが求められたのではないかと思われる。そもそも事務局と運営委員会という言葉を用いて役割分担をしていたわけではないが、研究プロジェクトのメンバーがその責務を十分果たせたかどうか。
<イベント実施プロセス>
1.【目的】対話の深まり:今回のプロジェクトの一番の目的であった(従来型のコンセンサス会議に比べての)市民パネルと専門家との対話の深まりは得られたのかどうか。また、それをどのように評価するのか。
2.【手法設計】時間的制約:時間的制約を乗り越えるための工夫が講じられていたかどうか。
3.【参加】市民パネル:今回は「いま社会として何をどう考えるべきか」を提案することが本旨であるため、個々の市民パネルの意見変容がどの程度起こったのか(視野の広がりが得られたかどうかなど)については不明である。詳細に調査をしたわけではないので、あくまで4日間のプロセスを観察してであるが、あらかじめ抱いている強い意見にこだわっている方も中には見受けられたように思う。それが必ずしも問題であるとは言えないかもしれないが(今回のテーマのような論争的課題では、代表性を徹底した選出であっても同じ問題は起こるだろう)、個人としてではなく他の市民パネルとの協働で「市民の提案」を作ることの難しさを感じた。
<イベントの成果/評価>
1.市民の提案:市民が誰に、あるいはどの組織に対し提案を行っているのかが明確ではないように思われる。これは、研究として実施することの制約、すなわち政策決定プロセスに明確な関連性を持たないために生じたとも言える。また、時間的制約がある中で対話を重視し、文章推敲の段階に十分な時間を取れなかったことを考えると、やむを得ないことかもしれない。
2.評価:イベント開催後に振り返りの機会を設定することは意義のあることである。とはいえ、評価項目が明確になっていないと単なる感想の羅列にとどまってしまう。もちろん定量的にというよりは定性的に記述するしかないことが多く、そもそも成果としての「市民の提案」は比較対照が難しく、また中立性や透明性などは個々に問題点を指摘するしかないが、評価項目についても事前になんらかの検討があってしかるべきだったと思われる。