Wakamats イベント「市民が考える脳死・臓器移植」の成果・資料公開



「脳死・臓器移植」を考えた市民パネルの活動記録 −専門家との対話から市民の提案へ−

鍵となる質問について

香川知晶@山梨大学

「鍵となる質問」としていただいた質問項目はきわめて多岐にわたっており、その全てに回答することは能力的にも不可能ですので、以下、とりあえず、すでにお話したことを繰り返し述べさせていただきます。

臓器移植によって従来だと失われたはずの命が失われずにすむということをとれば、それを悪いことだとする人はほとんどいない、むしろ積極的に良いことだと多くの人は考えると思います。確かに、拒絶反応やレシピエントの精神的な問題とか、さらには臓器移植の医療としての特殊性など、様々な問題点も指摘できるでしょうが、いずれも命が救われるという事実(この点は、さらに慎重な検討を要するという専門家の方のお話もありましたが)に比べれば、小さな問題にすぎないように思われます。

とはいっても、臓器移植は良いことなのだから、皆さん、移植に積極的に協力しましょうと声を大にして言う気にはなかなかなれません。特に、〈脳死=人の死〉、だから臓器移植という形の主張を聞くと、きわめて消極的な気持ちにならざるを得ません。

すでにお話したように、脳死と呼ばれる状態を人の死だとすることには大きな無理があると考えています。その点を見やすくするためには、脳死という言葉を使わずに、その言葉が普及する以前に使われていた言葉に戻してやるのがよいかもしれません。つまり、問題を「不可逆的昏睡状態の人は死んでいるのか」と言い換えてやるのです。ちなみに、前回ご紹介した脳死判定基準の出発点として有名なハーバード基準が出された論文そのものには、脳死(brain death)という言葉はまったく登場していません。脳死という言葉は委員会の名称の中に出てくるだけです。

「不可逆的昏睡状態の人は死んでいるのか」、こう言い換えてやると、いろいろな観点が浮かび上がってきます。不可逆的というのは、昏睡から回復させることはもうできない、ということです。少なくとも、現在の医療では手の施しようがない。経験のある医師がそう判定すれば(前回の専門家のお話では、その点について留保がつかざるを得ない状況もあるようですが)、その判断にまず間違いはないでしょう。ただ、不可逆的昏睡と言い直すと、不可逆的状態に至らないようにすることと、不可逆とされる状態を可逆的な状態にすることとが、医療にとっての目標であることも明示されるはずです。他方、家族にとってみれば、この状態だと判定されると、もうダメだ、助からないのだなと諦めなければならないことになるでしょう。しかし、このもう助からないということと死んでしまったということとの間には距離があるし、その距離のありかたはその時、その時で様々です。それは、一律に法で定めたとしても、埋められる距離ではない。少なくともわが国の現状では、そう言えると考えます。ただし、こうした状況は、これもまたすでにお話しましたが、わが国だけに限らないようです。日本の文化的、宗教的な特殊性といったことがあるにしても、この問題にはあまり関係がないのかもしれません。ともかく、この状態をどのように受け取るのかも、人によって様々にならざるを得ないと思います。不可逆的昏睡が臓器移植と結びつくのも、そうした多様性の中でしかないでしょう。多様な考え方の中には、そうした状態になれば、臓器摘出してもらってもかまわないとする人も含まれています。法的な扱いは難しくなるかもしれませんが、臓器移植はそうした人の意思を生かすという形を基本とするしかない、その意味で厳しい制限がつかざるを得ないだろうと考えています。